オーガナザイズド

三十郎氏は映画とカメラと旅について語りたい。なお、実態はほぼ映画である。

『もう終わりにしよう。』

I'm Thinking of Ending Things, 134min

監督:チャーリー・カウフマン 出演:ジェシー・バックリー、ジェシー・プレモンス

★★★★

概要

別れようと思っている恋人の実家に行く話。

短評

スパイク・ジョーンズミシェル・ゴンドリーらと組んでいた脚本家時代は“コメディの人”のイメージだったが、自分で監督するようになってすっかりシリアス寄りになってしまったチャーリー・カウフマン。もっとも、「現実と妄想の境界が溶けていく」というモチーフは一貫しており、本作も非常にシュールな仕上がりとなっていた。99%くらいは「???」な内容で、観終わった瞬間も「???」だったが、“叙述トリック”だと各所に書いてあって色々と腑に落ちた。細かい部分については「???」のままなのだが、意味が分かると自分のことすぎて辛い。これは『ジョーカー』なんて目じゃない真の“弱者男性映画”だぞ。多分もう一度見直せば五つ星になるやつ。

あらすじ

恋人のジェイク(ジェシー・プレモンス)とは先がないので「もう終わりにしよう」としようと考えている女(ジェシー・バックリー)。しかし、それを言い出すことができぬまま、彼の実家に挨拶しに行くことになる。どこか噛み合わない車内の会話、精神を病んだジェイクの両親。次第に彼女の現実が崩れていく。

感想

鍵となる存在は、実家訪問とは無関係に登場する“老用務員”である。根拠はないが彼がジェイクであることは何となく察せられ、彼と“主人公”の女との先のなさを象徴しているように思われる。「このままジェイクと結婚すればいつかはこうなる」と。ジェイクの両親が突然老いて介護生活したり、あるいは死んだりするのも、「このままだとこうなるから別れよう」という理由付けの世界線であるように見える。

しかし、実家訪問を終えて帰宅中の二人が高校に立ち寄ると、件の用務員と女が“お別れ”する場面が訪れる。すると、その先に描かれるのは“ジェイクと別れた女”ではなく、“女と別れた用務員”なのである。つまり、本作の“主人公”はジェイクの方であって、女は妄想彼女だったわけである。悲しいことにこの叙述トリックに対して初見ですんなりと「あーそうだったのかー」と目から鱗を落とせないほどに三十郎氏の読解力は低かったわけだが(女の方から別れを告げるので上手く視点を切り替えられなかったのだろうか)、そうだと分かれば腑に落ちることが多い。

最大のポイントは、なぜ女の視点から描いたのかという点。これは『アニー・ホール』の「自分を受け入れるクラブには~」の話に似ていると思う。「女性にとって自分は魅力的でない」という考えを持っていると、ジェイクのように“遠くから見つめるキモい男”に徹することになり、気になる相手に声を掛けられぬまま、つまりは何も起こらぬまま時間だけが過ぎていく(「人は動かず時が通り過ぎていく」という会話とも一致する)。気づけば孤独な老人である。「もし声を掛けていれば」と妄想することはできるが、一方で自信の欠如からくる「上手くいかないだろう」が実践を妨げる。仮に本当は女性から望まれていることがあろうとも、今度は『Baby, It's Cold Outside』のレイプ解釈が邪魔をする。本作の女の視点というのは、ジェイクの「自分は女性からこう見られているだろう」という考えの具現化であり、彼の“非行動”の根拠であった。

ジェイクの『アニー・ホール』的な非行動原理がまるで自分のことのようで身につまされるのだが、ジェイク視点での「もう終わりにしよう」の意味はもっと辛い。彼は量子物理学を学んで身を立てることを夢見ていたのだろうが、能力の欠如か家庭の事情が原因かそれは叶わず、老いた醜い用務員として生徒たちから嘲笑される生活を送っている。そして、妄想彼女に別れを告げ、遂に死を選ぶに至る。彼は死の瞬間にも(自分でも現実味がないと理解しているであろう)ノーベル賞的なものの受賞を妄想しており、最後の最後まで“自分が人生で何をしたか”ではなく“何をしなかったか”に囚われたまま死んでいくのである。

彼が行動に移していたところで美人な恋人も学問で身を立てる夢も叶わなかったかもしれないが、それならば少なくとも“結果”は出ていた。「もしこうしていれば~」という考えは誰もが抱くだろうが、死の瞬間に抱く「後悔」という名の決してあり得ない夢というのは、挑戦しなかった(あるいは失敗体験のリフレインにより次の挑戦に踏み出せなかった)が故の哀しき妄想に過ぎない。「人は生きるために“希望”を発明した」という台詞があったかと思うが、可能性ゼロの希望ほど虚しいものはない。それがもはや希望ではないと理解すれば、“出すべき答えは一つ”なのである。希望なんてものがあるから苦しみが無駄に続くことになる。

なお、三十郎氏もまたジェイク的な非行動原理の持ち主である。まるで自分の未来を見ているかのようで辛いし、「刺さる」というよりも心臓に杭を打たれた気分である。今までに何千本も映画を観てきてここまで心から「自分のことだ」と思ったのは初めてかもしれない。しかし、だからと言って変わることができない人間でもある。これも女の「人間にも慣性がある」という言葉と一致する。ジェイクも同じことを考え続けてきたのだろう。

女の正体が妄想であったことが分かると、彼女の絵や詩がジェイク実家の地下室にあったことや写真で二人が重なる描写などの“悪夢ホラー”的な部分はすっきりする。理想の女性は自分の内にしかいない。演者のファーストネームが二人とも「ジェシー」なのも意図してのことなのだろうか。二人の会話に登場する『こわれゆく女』などについての議論は、お得意の“セルフ先回り”による自己否定の表現だったか。「母親に責任転嫁することもできるけど、俺がダメなのは俺のせいだって分かってる」という意味となる辺りは辛い。希望とは別種の現実逃避方法である責任転嫁すらできない。あまりにも救いがなく、死だけが救いである。退屈に思えた車内の会話シーンは見直せば発見が多そう。

最後に一つだけ。トニ・コレットのいる食卓はヤバい。