オーガナザイズド

三十郎氏は映画とカメラと旅について語りたい。なお、実態はほぼ映画である。

『シカゴ7裁判』

The Trial of the Chicago 7, 130min

監督:アーロン・ソーキン 出演:エディ・レッドメインサシャ・バロン・コーエン

★★★

概要

暴動扇動容疑の裁判。

短評

アーロン・ソーキンの監督二作目。去年のネトフリの“本命枠”の片割れかと思ったが、コロナ禍の影響でパラマウントからネトフリ流れしたそうである。証言と現場の映像を重ねる演出の多用によって画面に“動き”を出すことに成功しており、地味になりがちな法廷劇としては高い娯楽性を兼ね備えた一作だった。その一方、“いかに不当な裁判だったか”を主張することに全特化しているため、刑事法制上どう扱われるべきなのか、そもそも具体的に何を争っているのかといった要素がよく分からず、感動的なはずのクライマックスにもいまいちノリ切れず。三十郎氏は「正しい目的があらゆる手段を肯定する」という考えの持ち主ではない。

あらすじ

1968年、大統領選を控え、シカゴで開催された民主党全国大会に急進的左派のグループがベトナム戦争への抗議のために集結した。平和的に行われるはずだったデモ行進は警官隊との衝突へと至り、それから五ヶ月後、各グループの代表者8人が暴動を扇動した共謀罪の容疑で起訴される。判事は被告人に敵対的、独立独歩のブラックパンサー党は暴走、残り7人の被告人の間でも内輪揉めが尽きず、絶望的なまで劣勢の裁判が幕を開ける。

感想

そもそも起訴自体がニクソン政権の新司法長官ミッチェルによる前任者クラーク(マイケル・キートン)への嫌がらせで、共謀罪も南部の黒人活動家を押さえつけるために制定された法律を無理やり持ち出している。判事は最初から有罪と決めてかかっている上にどうしようもない阿呆であり、陰謀じみた陪審員への圧力により被告側に同情的な陪審を排除。本作の主張を丸呑みするならば、もはや「裁判」とは呼べないような不正義が罷り通っていたことになる。

しかし、確かにこれらの場面には「なんてバカげてる!」と憤りを覚える一方で、裁判の具体的争点がよく分からないことが消化不良へと繋がる。たとえば、クラークが証人となることを決意して出廷し、彼の「在任中の証拠では不起訴の方針だった」という証言が“お蔵入り”となる場面。「検察に不利だから黙殺された」という印象を抱くだろうが、仮にミッチェルの就任後に新証拠が出ていれば何も問題ない(あるいはクラークの方が同じ左派に温情をかけた可能性だってなくはない)。あるいは、トム(エディ・レッドメイン)による扇動の決定的な証拠が出てきてしまった場面。「これは有罪やむなしではないの?」と思ったら、「俺たちは戦没者のために戦ってるんだ!」という法律とは全く無関係な“動機”を主張する。事実認定と法解釈がどうなされるべきなのかという議論が、恣意的なのか否か回避され続けている。

度重なる判事の暴虐を受け、最も穏健であったデヴィッド(ジョン・キャロル・リンチ)が「どうして審理してくれないんだ!」とブチ切れる。このフザけた裁判の全責任を(過剰なまでに阿呆として描かれる)判事に背負わせる場面なのだが、細部の不正を描くことに汲々としてしまったために裁判の全体像がよく見えず、実際に頓珍漢な審理であったのかが分からない。嫌がらせ起訴は裁判自体を無効としうるのか、被告人たちが具体的に何をしていたことが認定されれば共謀罪の構成要件が成立するのか。あるいは逆に被告人に勝利の目はあるのか。そうした裁判の本来の争点が分からない。「あれもこれも被告人に不利なことばかり!」とばかり散漫に主張されようと、“政治的裁判”によるものなのか判事の暴走なのかも不明確だった。

そのような「結局どうなの?」を全て置き去りにし、映画はトムが戦没者約4500人の名前を読み上げる場面で終劇となる。共謀罪ではなく暴動の扇動で懲役5年の有罪となるも、再審理で不起訴に終わったことがエピローグのテロップで語られていたが、素直に「被告人たちに正義があった」と受け止めてよいものか。実際に判事の阿呆ぶりが認められた結果ではあるらしいのだが、そのこととトムによる暴動の扇動は別件であり、これではいずれにせよ“正当な裁判”が成されていないのではないか。なんだか“一矢報いた”感じにはなっていたが、「お前は責任取らなきゃダメだろ」という気もして、スッキリしないのであった。