オーガナザイズド

三十郎氏は映画とカメラと旅について語りたい。なお、実態はほぼ映画である。

『マトリックス レザレクションズ』

The Matrix Resurrections, 148min

監督:ラナ・ウォシャウスキー 出演:キアヌ・リーブスキャリー=アン・モス

★★★

概要

トリニティ奪還作戦。

短評

約二十年ぶりとなる続編。正直に言って、一作目の時のような衝撃は全くなかった。「完結した話なのに今更何をすればよいのか」という自己言及的過ぎる話の出発点は面白かったが、これまた自己言及的かつメタなテーマばかりが先行してストーリーや設定の言葉による説明が過剰であり(それでも理解できない部分はある)、何よりも映像表現やアクションの面で新鮮さ皆無だったのが残念でならない。ただし、それらの欠点もまた全て自己言及されていたことであり、“マトリックスの新作”ではなく“ウォシャウスキーの新作”という枠であれば、「まあ、こんなもんか」と納得できる程度の作品ではあったと思う。きっと新しい世代の観客が本作を観てもそこまで刺さらないだろう。あの時代に、あの『マトリックス』に出会えてよかった。

あらすじ

ビデオゲームマトリックス』トリロジーをヒットさせ、世界一のゲームデザイナーとなったトーマス・アンダーソン(キアヌ・リーブス)。しかし、そのゲームの特性から現実と空想の区別がつかなくなった彼は精神を病み、自殺を図ったこともあった。そんなトーマスの前に自分が“書いた”キャラクターであるモーフィアスが現れ、彼は再び“現実世界”へと足を踏み入れることになる。

感想

ゲームデザイナーのアンダーソンが“新マトリックス”の住人だったという話である。映画序盤は、ゲーム『マトリックス4』の制作が“親会社ワーナー・ブラザース”の意向で決まり、その方向性について悩むというもの。「マトリックスの魅力はアクションだ!」「バレットタイム、未知の映像体験だ!」「いや、哲学こそがマトリックスだ!」と開発メンバーが好き勝手に言い合い、「そんなの全部に応えられるわけないじゃん」という監督の悲鳴が聞こえてくる。それを茶化すコメディ映画ではなく“続編そのもの”がここまで言い切った作品は他にあるまい。

このメタなコント自体はウディ・アレンの映画みたいで好きだったのだが(キアヌがアヒルのおもちゃを頭に乗せて風呂に浸かる姿が見られるだけでも楽しい)、正直に言えば、それを理由にして諦めてほしくはなかった。アンダーソンが上司スミスから「君がやらないなら君なしでも作るから」と言われたり、EDロール後のおまけ映像からも本作の制作背景が分かるようにはなっているが、それでも“あの『マトリックス』を超える”を期待してしまうのが人の情というものである。

レボリューションズ』の後、マシン側の“アナリスト”がネオの遺体を回収し、“新マトリックス”を制作。しかし、彼一人だけではプログラムが安定せず、「トリニティの身体を近くに置いたらめっちゃ発電した(=愛の力)」という理由で二人揃って新マトリックスに再び囚われていた。ザイオン時代のように人間と機械が激しく争っているわけではなかったが、“伝説の救世主ネオ”を見つけたバッグスたちが彼を解放。それならトリニティも一緒じゃなきゃね、というのが大まかな話の流れとなる。

一作目と同じく“抑圧からの解放”がテーマとはなっているものの、本作の特徴はやはり“自己言及”にある。読み解くべき対象もプログラム的な意味のメタではなく現実世界的な意味のメタである。「実は救世主はネオだけではなく……」という結末や、マトリックス内におけるバッグスの青髪などは(レキシー(エレンディラ・イバラ)とカップルのレズビアンだろう)、多分に監督の“現在”が投影されたものと言えるだろう。言ってしまえば、本作はトランスジェンダーであることを公表して女性となった今の監督を根底におき、一作目とほぼ同じことをミニマムなスケールで繰り返したに過ぎない。ストーリーの繋がりよりも価値観の変化が重要な、かなり“リブート”に立ち位置の近い続編だったかと思う。したがって、意図は分かるが、革新性がないならマトリックスである必要もない。監督の変化について何も知らなければ、近年粗製濫造される価値観以外に何も進化していない続編・リメイクを体現して皮肉った作品だと受け取った可能性もある。

冒頭のメタコントで「もうやることないねん」「どうしてもって言うなら好きにやらせてもらうから」と宣言されているため、現代的な価値観偏重のストーリーには特に違和感を覚えなかった(ウォシャウスキーの場合、ポリコレ仕様に“合わせた”のではなく自己表現の面があることも大きい)。無理やり話を続けるならこうするしかないだろう、というところである。ただし、ストーリー以外の“映像”の面にも監督の現在の価値観やセンスが反映されており、そこは旧トリロジーのファンとして残念だった。緑がかっていたダークで特徴的な画面は色鮮やかになり、ファッションも黒で統一されてはいない。ある意味では“クサい”までのスタイリッシュさこそがマトリックス的であったため、ここはかなりノレない要素である。

肝心のアクションはそれなりには楽しめたが、特に目新しい演出はなし。(超絶早口な)“新バレットタイム”とでも呼ぶべき演出がありはするものの、これはX-MENクイックシルバーが他作品で披露済みである。敵がエージェントからbotになり、敵の数が増えているのだが、もはやスタイリッシュなアクション映画ではなくゾンビ映画である。爆笑の“bot爆撃”はカミカゼアタック的な日本要素だったか。

ネオとトリニティ以外のキャラクターも残念だった。旧トリロジーのモーフィアスと同じく物語の“進行係”を務めるのがバッグスだが、彼のような神秘性はない。監督の嗜好が反映されている以外はどこまでも進行役でしかない。役者が変わったモーフィアスとスミスは“同じ人でも違う人でも構わない”という設定が与えられていたが、同じ人でもよいならば完全に同窓会をしてほしかった気もする(ギャラは抑えられるだろうが)。特にスミス役が酷いのだが、まったく印象に残らない“モブ顔”が多すぎる。コミカルな描写を増やしたことで全体のタッチも軽くなっており、登場するキャラクターも随分と軽いノリだった。大人サティのプリヤンカー・チョープラーは美人だった。チャド・スタエルスキの使い方は笑った。

さて、実は生かされていたネオとトリニティが目覚めて新マトリックスを築いたアナリストを懲らしめ、「マトリックスを作り直す」という結末。これはそのままハッピーエンドとして受け止めてよいのか。それとも“作り直す作業“を描く続編ありきの結末なのか。仮に後者であった場合、自由を無条件に信仰する人間に適切な“管理”ができるものなのか気になる。「皆、自由になれ!」からのエネルギー問題が到来する未来しか見えない。

擁護不可能なレベルで酷かったのはED曲。オリジナルへの冒涜に近いカバーである。これも「続編なんて作りたくなかった」というメタ演出だったりするのか。