オーガナザイズド

三十郎氏は映画とカメラと旅について語りたい。なお、実態はほぼ映画である。

『はじめてのウィトゲンシュタイン』古田徹也

概要

ウィトゲンシュタイン入門。

感想

ウィトゲンシュタイン」という名前や『論理哲学論考』という著作の存在だけは知っていたが、その主張や内容については全く知らなかったので。「はじめての~」というタイトルがいかにも初学者で向きといった“とっつきやすさ”を感じさせる。もっとも、内容については著者が平易に解説してくれてもなお難解な部分が多く、理解できたような部分でそうでない部分があった。原著を読んでもさっぱりどころか通読できないだろう。

本書は三章構成である。ウィトゲンシュタインの哲学を「前期」と「後期」に分け、第一章では『論理哲学論考』の内容である前期を、第二章では同書の執筆後にアカデミアを離れたウィトゲンシュタインが“帰還”して主張を修正した後期を、そして第三章では晩年の取り組みを紹介している。

論理哲学論考』とは、「語りうるもの」と「語りえないもの」との間に“アプリオリ”な境界線を引く試みである。「論理」「存在」「独我論実在論」「決定論、自由意志論」「価値、幸福、死」といったそれまでの哲学で対象とされてきた事柄について、それらを「有意味に語ることは不可能」であると断じている。たとえば、「論理」はそれを語ろうとする言葉や記号列に既に反映されてしまっており、それを“対象”とすることはできないのだと。我々や哲学者はそれらについて何事かを語った気になりがちだが、そもそも何も語っていないことと同義なのである。

そうして“哲学的なもの”を語る行為を否定した帰結として、ウィトゲンシュタインの主張もまた無意味なものと化す。無意味なものについても語ることもまた無意味なのである。彼は自身の主張を「梯子」と表現しており、それを登り終えたら(=無意味であることが分かるようになったら)捨て去るべきだと言う。かくして、彼はアカデミアを去り、“沈黙”したのだった。

結局は無意味となる『論考』が梯子として機能するのならば、他の無意味な命題について語ることもまた梯子になりうるのではないかという疑問が浮かぶが(帰結として無意味になる必要があるのか)、アカデミアの外で生きる能力のなかったウィトゲンシュタインは別の方法で自身の主張を修正する(小学校では“暴力&依怙贔屓教師”として問題を起こした)。

『論考』では“アプリオリ”に境界を引こうとしたが、無意味であるはずの命題もまた“文脈”によっては意味を成すことがあるとの論を後期ウィトゲンシュタインは展開する。「普遍」から「具体性」への転換である。『論考』のように特定の考え方(「像」)に囚われてしまうと、それに合わせて現実の見方を歪めてしまう危険性があるのだと。たとえば、複数の事象の間に共通点(「連結項」)を発見すると、人はそれこそが“本質”であるかのように絶対視しがちである。しかし、それが「精神的痙攣」を招き、ドグマ化に陥る危険性があるのだと。

ウィトゲンシュタインは極端な例を用いることが多いため、「論理的には正しそうだが、すんなりと納得はできない」という状況に陥ることが多い。こんな時、「詭弁だ!」という半ば敗北を認める形の抵抗をしたくなるものだが、人々の常識をぶっ壊し、凝り固まった精神を解きほぐすことこそが彼の目的であったらしい。世界のあるがままを見て驚け、と。素直に受け入れることはなかなか難しくとも、「こんな考え方もできるのか」という気付きを与えてくれる内容だったかと思う。