オーガナザイズド

三十郎氏は映画とカメラと旅について語りたい。なお、実態はほぼ映画である。

『ジョーカー』2

Joker, 121min

監督:トッド・フィリップス 出演:ホアキン・フェニックスロバート・デ・ニーロ

他:金獅子賞、アカデミー賞主演男優賞ホアキン・フェニックス)、作曲賞(ヒドゥル・グドナドッティル)

★★★★

概要

精神障害持ちの底辺が吹っ切れる話。

感想

ここ数年で最も話題となり、同時に議論を巻き起こした作品と言ってしまってよいだろう。そのせいで劇場公開時に語り尽くされてしまった感はあるものの、時間を経て改めて観てみると、本作の虚実入り乱れて“どのようにでも受け取れる”という性質が非常に上手くいっていたことが分かって面白かった。あーだこーだと議論したことまで含め、監督に上手く遊ばれてしまった感がある。

劇場鑑賞と自宅鑑賞とでは、やはり“没入感”が異なる。アーサーへの感情移入の度合いが弱まると残るは“ただのヤバい奴”であり、「遠くから見れば喜劇」の性格が強まる。全く笑いの取れない惨めなコメディアンが、“生い立ち”と“憧れ”の二つの希望に裏切られるも、“棚ぼた”的に時代のヒーローとして祭り上げられる。隣人関係の話なんて完全にジョークでしかない。そのどこまでが現実なのか分からない点まで含め、物語の全体像は非常に滑稽な話である。

ただし、実はアーサー自身は徹頭徹尾どうでもよい存在だったりして、“受け入れ側”こそが真に重要というのが本作の面白い所。仮に地下鉄殺人事件が彼の妄想に過ぎなかったとしても、社会に不満を持つ大衆がそれを受け入れれば彼は“象徴”と化す。また、映画全体がアーサーの妄想に過ぎなかったとしても、今度は“観客”が彼の行動を受け入れれば彼は同じく象徴と化す。もし妄想であっても、その願望が共有されさえすればいいのだ。暴動や略奪といった犯罪行為までもが正当化されうることは、映画公開後の現実世界が既に証明してくれた。トラヴィスがある種のヒーローになってしまったためにパプキンが出てきたわけだが、両者の存在を踏まえた上で、アーサーをそのどちらとして捉えるのかを本作は観客に問うたことになる。

したがって、本作のどこまでが現実でどこから妄想なのかについても、それは観客が自分の“都合”に合わせて判断すればよいことだと思う。人は“ヒント”を見つけてしまうとそれを過剰に評価しがちだが、結局は見たいものを見ているに過ぎない。続編の企画が進行中との噂もあるが、事実を“確定”させることは本作の価値を毀損することにも繋がるため、やめておいた方がいいと思う(公開されたら観るんだろうけれど)。

もう一つ“受け入れ方”という点で面白かったのは、アーサーとマレーの関係性だろうか。これが最近起きた硫酸男の事件を想起させた。同事件は容疑者による逆恨みの性格が強いと報道されているが、本作の二人の関係にも似ているところがある。「イジメ」と「イジり」の境界を“イジる側”が勝手に決めていれば、同じことがいつ起きても何も不思議ではない。格差や差別といったマクロなレベルであれ、イジメといったミクロなレベルであれ、それが何かを引き起こす可能性は常に存在している。今まで大丈夫だったのは、基準が正しかったのではなくただ運がよかっただけなのかもしれない。

オスカーを受賞したホアキン・フェニックスの演技だが、階段でのものを筆頭に“踊る”動きが印象的だった。肉体改造、あるいは笑いや怒りといった感情表現以上に、あんな気持ち悪くて美しい動きがよくできるものだと思う。

人とは笑いのツボが異なるアーサーだが、チャップリンの映画を観ている時だけは同じタイミングで笑顔になっていた。大正義チャップリン。言葉を用いる以上は、誰かを笑わせても他の誰かを傷つけうるのか。