オーガナザイズド

三十郎氏は映画とカメラと旅について語りたい。なお、実態はほぼ映画である。

『ラスト・ドア』

Go Home(A casa loro), 89min

監督:ルナ・グアラーノ 出演:アントニオ・バンノ、シディ・ディオップ

概要

レイシストと難民とゾンビ。

短評

イタリア製のゾンビ映画で、実際にゾンビも出てくるのだが、多分に“ゾンビ詐欺”的だった。冒頭に「不寛容は何も生まない」という一文が挿入されるものの、何も生まないのはこの映画である。ロメロのように隠喩としてゾンビを用いるでもなく、ゾンビをそっちのけにしてレイシストと難民たちの交流を退屈に描いた挙げ句、よく考えれば主張と展開がズレているとしか思えない不可解さ。これは皮肉を込めて狙ったものなのか。そうだとしてもあまり上手くはいっていない。

あらすじ

ローマでの難民排斥デモに参加中の青年エンリコ。しかし、突如として町にゾンビが溢れ、難民収容施設へと逃げ込むことになる。難民たちと共に生活する内に、差別主義者であったエンリコの心境にも変化が現れるようになるのだが、遂に食料が尽き、施設内の感染者にも異変が生じはじめる。

感想

ゾンビは収容施設の外にいるばかりで、映画の大半は施設内の避難生活の描写に割かれている。ゾンビに対して何をするわけでもなく、政治的な意図だけが先走っているようにか感じられない退屈な展開である。やがて、エンリコがアリ少年とサッカーに興じて仲良くなったりするが、最後は少年を餌に自分だけが助かろうとし、無口な大男イブラヒムの一撃を受けて死亡するという結末を迎える。「レイシストは根っこから腐っている」という理由で、エンリコに天誅を加えたらそれで「不寛容は何も生まない」と言ったことになるのだろうか。

ここで「レイシストと難民」の関係と「難民とゾンビ」のそれを重ねて考えてみたい。排外主義者たちは次のように主張する──曰く、「奴らは犯罪者で危険」「俺たちの税金にたかる」と。「だから排除せよ」という論理で、本作はそれを否定しているように思われるが、後者の関係と重ねてみた時、彼らの主張が肯定されてしまわないだろうか。

ゾンビは危険であると予想される。したがって、排除(=殺害)せねばならぬ。寛容を説くのであれば、少なくとも「危険らしい」という予測ではなく、「実際に罪を犯した」という行為に対して処罰する必要がある。しかし、悠長にそれを待っていれば自分が食われるかゾンビになってしまう。さすれば、予測だけに基づいて排除する必要がある。これは皮肉のつもりなのか。「不寛容は何も生まない」はミスリードなのか。それならエンリコを一方的に悪者にして断罪する結末には納得がいかない。

「ゾンビはもう人間じゃないから殺してもOK」の映画的ルールが難民問題に対する考え方との齟齬をきたした点にも詰めの甘さを感じたが、そもそも、ゾンビを「レイシストはクズ」と主張するための“道具”としてしか使えておらず、それがゾンビである必要性を全く感じられなかった。社会派映画ぶってはいるものの、これなら「押し寄せる難民がゾンビに見える」と示唆した『ゾンビ・サファリパーク』の方がよっぽど真面目な映画であるようにすら思われる。

「ドラマと違ってゾンビの頭を簡単に潰せたりはしない」という発想は悪くなかったかと思うが、それなのにどうして“耳にフォーク”なんていう描写を入れてしまったのだろう。

ラスト・ドア(字幕版)

ラスト・ドア(字幕版)

  • 発売日: 2019/08/02
  • メディア: Prime Video