オーガナザイズド

三十郎氏は映画とカメラと旅について語りたい。なお、実態はほぼ映画である。

『アマンダと僕』

Amanda, 106min

監督:ミカエル・アース 出演:ヴァンサン・ラコスト、イゾール・ミュルトリエ

★★★

概要

姉が死んで姪の面倒を見ることになる話。

短評

喪失の悲しみと直面する困難、そして再生を描いたフランス映画。ハリウッドがこのテーマを扱う場合、時にはコメディ映画として、再生の部分に焦点を当てることが多いイメージがある。本作は前者の二つにより深くフォーカスしており、観客にとっても辛く悲しい時間が続くことになるのだが、その先に“予感”される再生は爽やかな感動を残した。

あらすじ

パリでアパートの管理人他不定期の枝打ちバイトをして忙しく過ごしている青年ダヴィッド。しかし、彼のシングルマザーの姉サンドリーヌ(オフェリア・コルブ)がテロの犠牲者となり、残された7才の姪アマンダ(イゾール・ミュルトリエ)の世話を叔母モードと交代ですることになる。想像だにしなかった突然の出来事にダヴィッドは大いに戸惑い、自らの悲しみも癒えぬままに新生活を始めることになる。

感想

姉が死んだ。姪の面倒を見なくてはいけない。この二つの事実を突きつけられた時のダヴィッドの心境は、「姪は可愛いけれど子育てなんて想像もできない」というもの。これ以上なく率直な意見だろう。三十郎氏にも姪がいるのだが、もし同じ状況に置かれれば、間違いなく同じ事を考えるだろう。可愛がることと育てることは全く違う。そこには責任の有無という超えられない壁が存在する。ダヴィッドが友人から「この先どうするの?」と問われた際、「分からない」と漏らして思わず泣き出す姿には、「確かにどうしていいか分からんよなあ……」と思わずにはいられなかった。

一方のアマンダちゃん。「7才の頃の自分が同じ状況に置かれれば……」というのは、正直に言って想像がつかない。彼女は逞しいようでもあり、現実を理解し切れないようでもあり、ふとした時に涙が止まらなくなる姿が印象的だった。叔母の家からダヴィッドと実家に戻る時には「叔母さんがいい」と言い、叔母の家に来ると「叔父さんがいい」と言い出す。この一見幼稚にも思える発言は、母親がいなくなり、“自分のことを一番に考えてくれる大人”の不在に対する不安が象徴されていたように思う。叔父も大叔母も優しくしてくれはするが、果たして、自分の居場所はどこなのかと。戸惑いながらもアマンダの後見人となることを決心し、「僕と一緒で耐えられる?」と問うダヴィッド。「今に分かる」と返すアマンダのなんと大人びていたことか。

この種の“物語”にはダヴィッドたちを支えてくれる人の存在が不可欠なのだが、彼の恋人レナ(ステイシー・マーティン)もまたテロの被害者となる。彼女は命を取り留めるものの、ピアニストなのに右手を使えなくなり、「今の私にはあなたたちを支えられない」と言ってパリを離れる。これも仕方のないことである。事件の関係者は皆、自分に起きた事を受け容れるだけで精一杯だろう。ダヴィッドの友人アクセルが「時が止まった感じ。宙ぶらりん」と話していたように、あまりに衝撃的な出来事の場合、それはなかなか現実感をもって消化されない。レナが“時間を掛けること”の重要性を強調していたように、少しずつ、少しずつ前に進むしかないのだ。なお、ステイシー・マーティンは本作でも隙あらばと脱いでおり、美しいおっぱいを舐められている。

生前のサンドリーヌが用意していくれていたウィンブルドンのチケットを手にロンドンへ行き、20年ぶりに母アリソンに会い、試合を観戦するダヴィッドとアマンダ。試合がほぼ決まりかけ、「エルヴィスは建物を出た(Elvis has left the building)」という母が教えてくれた表現を思い出して泣き出すアマンダ。しかし、そのまま試合が終わることはなく、「もうおしまい」と思われた状況からも立ち直ることができるという本作の物語を象徴するラストとなっていた。

アマンダと僕(字幕版)

アマンダと僕(字幕版)

  • 発売日: 2019/12/18
  • メディア: Prime Video