オーガナザイズド

三十郎氏は映画とカメラと旅について語りたい。なお、実態はほぼ映画である。

『悪しき造物主』E.M.シオラン

Le Mauvais démiurge(The Evil Demiurge)/Emil Mihai Cioran

概要

善良なる者は創造しない。すなわち、世界に善は存在し得ない。

感想

シオラン、1969年の一冊。『悪しき造物主』『新しき神々』『古生物学』『自殺との遭遇』『救われざる者』『扼殺された思念』の全六章の内、『自殺との遭遇』と『扼殺された思念』の二章がアフォリズム形式となっている。通常のエッセイの中にも訴えかけてくるものはあるのだが、やはりアフォリズムの短文の方が言葉にキレがあるというか、突き刺さる内容が多かったように思う。扱っている内容がちょうど三十郎氏のストライクゾーンのド真ん中だったのもあるとは思うが。

以下、例に倣って気に入った箇所をメモしておく。

善良なる神、〈父なる神〉が創造のスキャンダルに手を貸したとは信じ難いことであり、信じられぬことだ。

子を産むことは、別のやり方、別の規模で、創造者の名を冠した企てを継続していることにほかならず、嘆かわしい猿真似で、彼の〈創造〉を増大させていることにほかならない。

子を産むとは災厄を愛することにほかならず、災厄を維持し、増大させようと欲することにほかならない。

しかし快楽は悦びではない。悦びの見せかけである。快楽の機能ははぐらかすことであり、そして創造はどんな細部においても、それが生まれでたあの最初の悲しみの痕跡を留めているという事実を、私たちに忘れさせるところにある。

私たちは、運命が各人に分け与えているものが何であるかを知るとき、忘却の一瞬と、その結果たる不運の驚くべき総和との不均衡ぶりを目のあたりにして、茫然自失たらざるを得ない。

魂とは生まれつき異教的なものなのだ。

一神教には専制君主制のあらゆる形態が萌芽として含まれているという事実を、いままたここに繰り返すなら、古代の奴隷制はもはや同情をそそらぬものになる。

生に決着をつけたいという欲望を感ずるとき、それが強いものであれ弱いものであれ、私たちはその欲望について考え、それを説明し、自分に対して説明することを余儀なくされる。

死は必ずしも解放とは感じられない。自殺は常に解放であり、つまりは救済の極点、発作である。

自殺に対して企てられた千年に及ぶ陰謀のために、社会は人間であふれかえり、動脈硬化をきたしている。(中略)どこを見ても目に入るのは、まさに自然死の下劣さである。

生きながらえるとは衰えゆくことであり、生存とは存在の喪失なのだ。

欣然として消え失せるには、もう遅すぎるのである。

自殺という観念がなかったならば、人はたちどころに自殺して果てるだろうと、何度私は考えたことか!

いまだかつて一度たりとも自殺を考えたことのない者は、絶えず自殺を念頭に置いている者よりもずっと素早く自殺を決意するだろう。

なぜ私は自殺しないのか。──もし私が自殺の妨げになっているものを正確に知っているならば、もう私には自分に課する問いはあるまい。なぜなら、私は一切の問いに答えてしまったのだから。

生を途中で放棄した人間にとって、困難なのは残りの生の始末だ。(中略)放棄の落伍者。

東洋では周知のことだが、賢者は計画を立てることを拒み、何一つ企図しない。だから君は賢者のようなものだろう……実を言えば、君にしても計画は立てるのだが、それを遂行するのが嫌なのだ。

欲望によって私たちはこの世界の者であり、欲望を克服してしまえば、もう何処の者でもなく、聖者にも幽霊にも羨望を抱くべきすじのものは何もない。

不安は彼の人生の絶えることなき糧であった。不安をたらふく喰い、はちきれんばかりになった彼は、不安の異常肥満者だった。

存在しないよりは存在するほうがましだ、ということを証明するいかなる方法もない。

街にひしめき合っている凶暴な、疲れきった、哀れな群衆。……やつらはいたるところから流れ込んできた出来そこない、大陸の死骸、地球の吐き出した反吐だ。(中略)あらゆる世界の中心地は、すべからく世界の汚物処理場なのだ。

不安に囚われた人間はさまざまな恐怖を自分で作り上げては、そこから動こうとしない。眩暈を自分の家で楽しんでいる出不精者。

どんな些細な想い出でも掘り返しにかかると、とたんに憤怒で胸も張り裂けんばかりの状態になる。

ひとりっきりで、何もしていなくとも、時間を無駄にしているわけではない。誰かと一緒にいるとき、私たちはほとんどいつも時間を浪費している。自己との対話は、たとえそれがどのようなものであれ、全く不毛なものというわけではない。

おのれを取戻すためには、世間から〈忘れられて〉いるに越したことはない。そうなれば、私たちと重要なものとのあいだに介入してくる者はひとりもいない。他人たちが私たちから遠ざかれば遠ざかるほど、彼らは私たちの完成に手を貸しているのだ。私たちを見捨てることで私たちを救っているのだ。

どんなものに対してであれ意味を探すのは、マゾヒストのすることであって、素直な人間のすることではない。

以上、全て、E.M.シオラン『悪しき造物主』より

悪しき造物主〈新装版〉 (叢書・ウニベルシタス)

悪しき造物主〈新装版〉 (叢書・ウニベルシタス)