Histoire et Utopie(History and Utopia)/Emil Mihai Cioran
概要
ユートピアなんて無理。
感想
シオラン、1960年の一冊。本書は1967年に日本語に翻訳されているのだが、これが初めての日本語化作品とのことで、シオラン本人が「日本版への序」と題した序文を寄せている。
これまでに読んできた作品とは異なり、本書はアフォリズムの形式を採用しておらず、『社会の二つの典型について──遠方の友への手紙』『ロシアと自由のウィルス』『暴君学校』『怨恨のオデュッセイア』『ユートピアの構造』『黄金時代』の、全六章の“まとまった文章”が記されていた(他にもこのタイプの著作があるのだろうか)。『訳者あとがき』には「訳書を読んでもらえば完全に分かるはず」とあったが、よく分からない部分を読み飛ばし、自分に響く部分だけを熟読できたアフォリズムとは異なり、きっちりと“主張”を読み解かねばならぬため、他作品と比べると読書難易度が高かったように思う。
したがって、理解の及んでいないところが大きいものの、シオランが序文に「この本は一九五七年から五八年にかけて書かれた。これは明確にしておかねばならぬ。なぜなら、第一章には当時の諸事件、とりわけ五六年のハンガリア動乱への暗示が含まれているからである」と書いたように、具体的事象への関心の高さが特徴だったかと思う。人間の本性と歴史、そしてユートピアとの関係が、“いつもの筆致”で綴られていた。
以下、例に倣って気に入った箇所をメモしておく。
重大なのは、兄の属する方の社会の悪弊が、こちらがわの社会に自分の悪弊をいつまでもつづけさせ、(後略)。
世界にはあたらしい逆上、錯乱が必要です。さもなければ世界は石と化してしまうでしょう。
理想はいくらでもあるが、そこに内容はなく、同様に価値の下落した用語を用いて言えば、神話は山とあるが、すべて実質を欠いている、(後略)。
自由は絶望的なまでに滅びやすく、確立されたとたんに未来の欠落を切願し、全力をふりしぼって自己否定をめざし、みずから断末魔をめざします。
停滞がロシアを異質な国、何か別の国とした。
つねに自由に憧れ、決して到達しないこと、これこそ、西欧世界に対するロシアの偉大な優位性ではないだろうか。
妬みが去ってしまえば、君は一匹の虫けらに、馬の骨に、亡霊に、さらには病人になりさがる。妬みに支えられているかぎり、自尊心の衰弱は癒やされ、君の利己心監督され、無感覚は克服され、かずかずの奇跡が発現するであろう。(中略)妬みを知らぬ者、これを無視する者、これから逃避しようとする者にわざわいあれ!
たとえ百歩をゆずって、犯罪なしに統治することができるとしても、不正行為なしに統治することは絶対にできはしない。
どんな国家もどんな帝国も、自分たちにこそ向けられた不正邪悪に対する、民衆の賛意の上に築かれてきた。民衆を侮蔑しない国家元首はなく、征服者もないというのに、民衆はこの侮蔑を受諾し、これを糧として生きるのである。
復讐をあえてしなかった人間は、おのれの日々を毒にまみれさせ、自分の小心を呪い、許しという反自然的行為を呪詛する。
生殖偏執狂
自分について幻想を持たぬ時、どうして他人に対して幻想を持つことができようか。
侮辱を忘れないということは、成功の秘訣であり、一個の技術であって、強固な信念を持つ人間なら例外なくこれを心得ている。
単に生存を保つだけでも、卑劣な行為は不可欠なのだ。
かくもおびただしい人間が、どうして殺し合いもせず、いのちに関わるまで憎みあうこともなく共存していられるのであろう。ありていに言えば彼らは憎みあっているのであるが、憎悪を実行に移すだけの能がないのである。
そもそもユートピアとは、どこにもない国を意味するのではなかったか。
「額の汗」を深く愛し、これを以て高貴のしるしとし、大よろこびで働きまわり労苦を背負いこむ一種属の烙印を、私たちは鼻高々で見せびらかして歩く。