James Cameron's Story of Science Fiction/James Cameron
概要
ジェームズ・キャメロンとSF映画の大御所たちとの対談集(+コラム)。
感想
ジェームズ・キャメロンが、ランドル・フレイクス(キャメロンの大学同窓の脚本家。彼は“ゲスト”の中で唯一の聞き手)、スティーヴン・スピルバーグ、ジョージ・ルーカス、クリストファー・ノーラン、ギレルモ・デル・トロ、リドリー・スコット、そしてアーノルド・シュワルツェネッガーと対談したTV番組『ジェームズ・キャメロンのストーリー・オブ・サイエンス・フィクション』(BD化されているが日本語字幕はなさそう。配信してください)の書き起こし本。邦題(副題の「創作講座」的な要素は薄い)の元ネタであるヒッチコックの『映画術』と映画『ヒッチコック/トリュフォー』の関係の逆バージョンといったところだろうか。
映画ファンならば誰もが名前を知っている大御所たちが、これまた誰もが観たことのある自身の作品についてや、その背景となっている「SFとは何ぞや?」という自身の考えを語っているわけだから、ファンならば面白くないわけがない一冊である。もっとも、シュワちゃんがそんな深い内容を語れるはずがなかったり、『エイリアン』や『ブレードランナー』やといったSF映画史に名を残す作品を撮ったリドリー・スコットが他の監督たち程にはSFフリークでなかったりはするものの、彼らの話にもまた面白いエピソードはある。大好きな作品に関わっているのだから当然である。知らなかったことを新たに知るのも楽しいが、やはり“知っていたことについて更に深く知る”楽しみには劣る。“知っていた”ということは、対象への興味とイコールなのだから。
「現実か夢か」で議論の分かれる『インセプション』のラストシーン。三十郎氏は「その方が幸せでいいだろう」という雑な理由により現実説を推していたのだが、本書の中でノーランが、またキャメロンらの監督たちが「自由意志」という言葉について多く言及していることから考えても、「コブが何を現実とするか」という本人の意志こそが、「何が現実なのか」を規定するのではないだろうか。つまり、コブが妻モルとの“閉じた世界”を捨て去り、子供たちのもとへと帰ることを“選んだ”。その結果こそが彼にとっての現実なのである。AI関連の話によく出てくる自由意志だが、『キング・オブ・コメディ』のラストシーンにも“現実の選択”という要素があるし、“人間”という存在を決定づける要素であることが窺われる。
我らが創造主ジョージ・ルーカス。三十郎氏にとって最高の映画監督はマーティン・スコセッシだが、ルーカスは別枠で至高の存在である。忌々しきネズミが彼を排除した時点でスター・ウォーズはスター・ウォーズでなくなったわけだが、本書で語られている「“ルーカスのEP7~9”のバージョンで観てみたかった」という気持ちを抑えられなくなった。彼は批判を浴びたミディクロリアンが繋ぐ宇宙規模の共生関係を軸とした構想を持っていたようで、それはどのような形になろうとも、単なる焼き直しと迷走の合体でシリーズの価値を下げただけの続三部作とは異なり、スター・ウォーズの世界をより深く掘り下げ、拡張してくれていたはずである。
『火星のオデッセイ』というSF小説があるらしい。もしかして、映画『オデッセイ』の邦題はここから取ったものだったのか。「まーた、日本の配給会社が雑な仕事をしている」と呆れたものだが、意外にもSFマニアの仕事だったりしたのか。
本書で紹介されている中では、『プライマー』という低予算タイムトラベル映画が気になった。これも配信してください。