オーガナザイズド

三十郎氏は映画とカメラと旅について語りたい。なお、実態はほぼ映画である。

『思想の黄昏』E.M.シオラン

Le Crépuscule des pensées (Amurgul gândurilor)/Emil Mihai Cioran

概要

ベートーヴェンはイマイチ。

感想

シオラン、1940年の一冊。フランス移住後にルーマニア語で書かれたものとしては最後の著作になるらしい。内容的にはこれまでに読んだニ冊と似通った部分が多いものの、「女性」についての記述の多さが本書の特徴だったろうか。なんとなく若さを感じる。また、「時間」についての言及も多いのだが、これはハイデッガーでも読めば理解が深まるのか。それとも更に混乱するだけなのか。

以下、例に倣って気に入った箇所をメモしておく。

生の秘密の一切は、次の点に帰着する。すなわち、生には何の意味もないが、にもかかわらず私たちはそれぞれ生に意味を見出しているのである。

悔いなければならぬ過ちなど何もないのに、それでも悔恨を覚える。何も覚えてはいないのに、過去が無限の苦悩で心を満たす。何も悪いことなどしてはいないのに、世界の悪に自分が責任があると感じる。

あらゆる思想は、天使に踏みつけられた一匹の虫けらのうめきに似ている。

もし私がモーゼならば、杖で岩を叩き、かずかずの恨み言を引き出すだろう。

信者など見あたらず、オルガンの訴えかけてくる神への敬虔な苦悩だけがあるならば、宗教は偉大なものであるかもしれない。

人間に興味を失えば失うほど、人間に対してますます臆病になる。そして人間を軽蔑するようにまでなると、人は口ごもるようになる。

人間は何も私たちに提供できぬと合点し、それでも人間とのつきあいを続けるのは、あらゆる迷信をきれいさっぱり捨て去ってしまったのに、幽霊の存在を信じ続けているようなものである。

人間からの断絶はおのずと人を病気にする。その結果、〈不幸〉とか〈忘却〉とか〈別離〉などという言葉を聞いただけで、人は耐えがたい戦慄の中で崩壊する。その時、人は生きるために不可能事をあえて試みる、つまり、生を受け容れるのだ。

大都会がこんなにも陰鬱なのは、人々がみな幸福になりたいと願い、しかもこの願望が大きくなるにつれてその確率がすくなくなるからだ。

生の病的否定は、同時に生の称賛でもある。

ひとつひとつの問題には、それぞれ別の温度が必要だ。ただ不幸だけは、どんな温度にも満足する。

人間を分かつものは、言葉への感情的共感によってはかられる。平凡な表現を聞いて、忘我の衰弱から病気になる人間もいれば、虚しさの証拠を前にしても冷静な人間もいる。前者にとって、辞書のなかの言葉で苦しみを秘めていない言葉などひとつとしてないのに、後者は、自分の語彙に苦しみという言葉さえ持ち合わせていないのである。

私は神が私たちの肋骨のひとつでイヴを創ったなどということは信じない。なぜなら、もしそうだとしたら、私たちはベッド以外のところで彼女と仲睦まじくなるべきはずではないか……

大いなる苦悩、怪物めいた苦悩のなかでは──死ぬことは何も意味しない。(中略)死の不安は、苦痛の始まりのもたらす病んだ果実である。

私たちは誰かある人に対してではなく、おのれ自身に対してつねに孤独なのだ。

臆病は、私たちの孤独を守るために自然が提供してくれた武器だ。

女性はどうして男性が不幸の愛好者であるかということも、自分の現存がどうして孤独の完璧を損うものであるかということも決して理解することはあるまい。にもかかわらず、女性は立ち去らねばならないのだ。そして女性が立ち去った後で、私たちは女性と共にあってもそうではなくとも、生がどれほど大きな錯誤であるかを知るのだ。

いまだかつて生は私には生きるに値するものと思われたことはなかった。ときとして生は、それ以上のものに、そしてそれ以下のものにも値する。いずれの場合も、耐えがたいものだ。

女性が──肉のなかをさまよう音楽が──存在しなければ、生は自動的な自殺となるだろう。

裸で鏡の前を通れば、私たちは自分が消滅の運命にあることを知る。なぜなら、肉体には虚しさが存在しており、不死性の思想には黴が生えているからである。

絶望は猛り狂う袋小路、償いようのない喧騒、不可能事の激昂だが、愛は未来への、幸福に開かれた未来への絶望である。

孤独を克服するさまざまの手段は孤独を増大させるだけだ。愛によって、陶酔によって、あるいは信仰によって、私たちはおのれ自身から遠ざかりたいと思いながら、自分の同一性をますます深く強固なものにすることしかできない。一人の女性の傍らにあるとき、アルコールに、あるいは神に溺れるとき、私たちは前にも増してずっと自分自身である。自殺でさえ、私たちがみずからに捧げる否定的なオマージュにすぎない。

人を退屈させる人間は、退屈することのできぬ人間だ。

死にたいと思わなかったならば、私は心臓があることに決して気づかなかったであろう。

方法と体系は精神の死だ。神でさえ断片によって考える。

ワーグナーは音のエッセンスのすべてを闇から搾り出したようだ。真に音楽を愛する者が音楽に求めるものは、避難所ではなく高貴な災厄だ。

死の欲望が、私たちの繊細な自尊心の表現にすぎない場合がしばしばある。つまり、私たちは未来の致命的な不意打ちを支配したいのであり、未来の重大な災厄の犠牲者にはなりたくないのだ。

苦悩こそは個人の酸素であり、人間と絶対とのあいだに介在する快楽だ。

幸福はある、しかし実在しない。

すべての者は自分のために、そして自分はすべての者のために自殺すべきだ、という感情を抱いたことのない者──こういう者はかつて生きたことがないのだ。

なぜ飲んだくれには常人以上にものが分かるのか。酔いは苦しみだから。なぜ狂人には常人以上にものが見えるのか。狂気は苦しみだから。なぜ孤独な者には常人以上にものが感じられるのか。孤独は苦しみだから。なぜ苦しみはすべてを知るのか。苦しみは「精神」だから。

人間には悔恨への秘かな欲望があり、その欲望は「悪」に先立ち、そして悪を創り出す。

孤独のなかで幸福であるためには、ひとつの妄想あるいはひとつの病気を絶えず気にかけていなければならない。

私たちを待ちかまえている時間、私たちがそこで生きねばならず、しかもどう扱ってよいのやら分からぬ時間、倦怠とは、この時間についての病的に明白な感覚である。

たった一度でも理由なしに悲しくなったことがあれば、私たちは生涯、それと知らずに悲しかったのだ。

会話が知性の催淫剤であるように、孤独は精神の催淫剤だ。

ベートーヴェンの音楽には、物憂い魅力も疲労もろくにない……

どうしたらもっとも不幸にならずにいられるのか──一切の問いは、この問いに帰着する。

情熱をもって、そして嫌悪をもって、私たちが生を愛するとき、ただ悪魔だけが私たちを憐れみ、私たちの茫然たる苦悩に運命の避難所を提供する。

生きているという事実を死ぬという事実から、どんなことをしてでも切り離さなければ、私たちは矛盾の快楽のなかで生と死に遭遇する。

以上、全て、E.M.シオラン『思想の黄昏』より

思想の黄昏

思想の黄昏

  • 作者:シオラン
  • 発売日: 1993/08/01
  • メディア: 単行本