オーガナザイズド

三十郎氏は映画とカメラと旅について語りたい。なお、実態はほぼ映画である。

『涙と聖者』E.M.シオラン

Lacrimi și Sfinți (Tears and Saints)/Emil Mihai Cioran

概要

バッハは最高。

感想

シオランが祖国ルーマニアを離れ、パリへと移り住んだ1937年の一冊。ルーマニア語からフランス語に翻訳され(フランス語の翻訳者が序文を寄せているが、さっぱり分からなかった。シオラン理解への道のりは長い)、そこから日本語へと再翻訳されたそうである。タイトルに「聖者」とある通り、本書は「神」についての記述が多く、『生誕の災厄』ほど三十郎氏に突き刺さるものではなかった。その一方で、シオランの音楽や絵画に対する愛のようなものが伝わってきて(特にバッハに対して)、彼の(本質的には同じはずなのに)異なる一面が見られた気がする。

以下は、前回に倣って気に入った箇所をメモしておく。

死の恐怖を克服した者は生をも克服したのであり、生とは死の恐怖の別名にほかならない。

被造物には性以外におのれ自身から脱出する方法がほとんどないから、一時的にしろ性は被造物を救うのである。

人間が死と折合いをつけたのは、死のかき立てる恐怖を回避するためにほかならなかった。だが、この恐怖がないならば、死ぬことにはもはやなんの意味もあるまい。なぜならば、死とはこの恐怖のなかにのみ、この恐怖を通してのみ存在しているからだ。

神は、私たちのありとあらゆる劣等コンプレックスを利用した。まず手はじめは、私たちがおのれを神と信ずるのを妨げるコンプレックスだった。

生に意味があるかどうかいまだにいぶかしく思っている人々がいる。実際にはこれは、生が耐えうるものかどうかという問いに帰着する。ここに問題が終り、決断がはじまるのだ。

涙、すなわち感情の世界における真実の基準。

神を摩耗させ、〈凡庸化する〉ために、私たちは夜となく昼となく神に思いをいたさなければならない。

神の帝国主義は人間の後退を前提としている。

どんな問題にも解決などはなく、どんな状況にも出口などない以上、私たちは結局のところ堂々めぐりを余儀なくされる。

生命の虚しさは、神の理想的なよりどころである。

バッハを聴いていると、神が芽生えるのが見える。彼の作品は神の発生器である。

神という観念は、かつて包懐された観念のなかでもっとも実用的でもあれば、またもっとも危険なものでもある。

孤独な人間の義務とは、さらに孤独になるよう努めることだ。

文明の黎明期はさまざまの理想を知ったが、文明の黄昏が知ったのはもろもろの観念にすぎず、情熱にかわる気晴らしの必要性だった。

生への無執着は不動性への好みを生む。(中略)私たちが精神的に落ち込めば落ち込むほど、事物は凝固し、やがては氷結する。

「苦悩は意識の唯一の原因である。」(ドストエフスキー

私たちは人間を忌み嫌ってはじめて解放される。

自由と幸福、私たちはこのいずれを取るか決めることができない。一方には苦悩と無限、他方には凡庸さと安全がある。人間は幸福を受け入れるにはあまりに思い上がった動物であり、幸福を軽蔑するにはあまりに堕落した動物である。

以上、全て、E.M.シオラン『涙と聖者』より

涙と聖者

涙と聖者