オーガナザイズド

三十郎氏は映画とカメラと旅について語りたい。なお、実態はほぼ映画である。

モリミマス 2021

読者諸賢、ハッピー・モリミマス。

今年で、はや三度目を迎えることとなったモリミマス。三十郎氏による懸命な普及活動が実ることはなく、「モリミマス」の検索結果は、依然として「モミマス」というマッサージ店をサジェストされる状況が続いている。

果たしてモリミマスを全世界に普及するには何をすればよいのか。三十郎氏が一人で森を見たところで、その孤高の行為に感化されて「私も!」も続く者が現れないことは、二年という時間と現況が既に証明済みである。「実際に森に赴かずとも妄想の森でよい」「なんならおっぱいでもよい」とハードルを下げても結果は同じ。そもそも内容がしょうもないし、それを面白がらせるだけの文章力もない。読者の数も決して多くはない。インターネット上において「普及する」と同義である「バズらせる」ための条件を何一つ満たしておらず、これではモリミマスが広まるはずもない。

しかし、奇しくも昨年より世界はコロナ禍の真っ只中にある。ただ一人で“森を見る”という行為は、その人と距離を置いた孤高さ故に、励行されるべきではあるまいか。読者諸賢よ、今こそモリミマスだ。人から離れ、木を、森を見よ。

パンデミックという世界的危機を好機へと逆転させ、一気呵成にモリミマスの普及を進めたいところだが、ここで再度の「しかし」。「森」とは何であるか。これはモリミマスの度に三十郎が頭を悩ませ続けてきた定義に関する問題であるが、少なくとも「木々の集合体」であることに異論はなかろう。木なくして、森もなし。

「集合体」である。つまり、「密」である。これはどうしたものか。あれだけ「三密を避けろ」と叫ばれているというのに、相手が木であるからといって密になってもよいものか。「木」がちょうど三つ揃って「森」。正に三密である。

仮にモリミマスが世界に普及してしまうようなことがあれば、密になるのは木だけでは済まない。森という空間では木が密となり、その隙間を縫うように人が密となる。最悪である。「森見クラスター」が発生するようなことがあれば、その責任者は三十郎氏に他ならない。これはなんとしても避けねばならぬ。

かくして、コロナ禍だからと言って安易に森に集まってはいけないという結論が導かれた。モリミマスは普及してはならない。今年も、そして来年も、三十郎氏のみがひっそりと心の内にて行うものとする。一向に普及が進まない言い訳を考えただけだと思われても大いに結構。言い訳がなんだ。そもそも普及したところで何になる。普及よりも初心を思い出せ、登美彦氏の誕生日を祝え。

太陽の塔(新潮文庫)

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