オーガナザイズド

三十郎氏は映画とカメラと旅について語りたい。なお、実態はほぼ映画である。

『生誕の災厄』E.M.シオラン

De l'inconvénient d'être né(The Trouble With Being Born)/Emil Mihai Cioran

概要

生誕こそが最大の災厄。

感想

稀代の反出生主義者エミール・シオランの1973年の一冊。シオランは体系嫌いであったとのことで、彼の生誕に対する恨み辛みが綴られた短い文章が多数掲載された格言集的な内容(アフォリズム)となっている。したがって、一冊の本として“何かを成す”ということにはなっていないが、どういう主張なのかは冒頭の一節に集約されている。

 どうしてこんな始末になったのだ? ──生まれてきたからだ。

E.M.シオラン『生誕の災厄』より

中には哲学用語の前提知識がないために分かりづらい文章もあるものの、不眠症に苦しむ著者が自身の生誕を嘆く悲痛な(その徹底ぶりは滑稽ですらある)姿は共感を呼び、また、その視点の鋭さにも感銘を受ける。シオランは注釈や説明を極端に忌避しており、「哲学史とは、哲学の否定である」とまで言い切っているため、三十郎氏も特に気に入った箇所をピックアップして引用し、解釈は自身の心の内に留めておこう(=文章化をサボって楽をしよう)と思う。

行動しているあいだ、私たちには一個の目標がある。だが、終わったとたんに行動は、追い求めた目標と同様、私たちにとっておはや実在性を欠くものとなってしまう。してみると、はじめからそこになんら実質的なものはなかったのだ。

あらゆる罪を犯した。父親となる罪だけは除いて。

この、私にしてみれば大変な事件が、私以外のすべての人間たちには、まるでありもしないこと、想像さえ及ばぬことであるのだ。

言葉を交わせる相手がついてにひとりもいなくなったとき、人間は、個人名を持った存在へと失墜する以前の状態に還る。

自分よりも苦しむことの少なかった者に、判断を下されるなどということをどうして受諾できようか。

はるかな昔から私は、この世が自分向きにできていないのを、どうしてもこの世に慣れることができないのを自覚してきた。私が多少なりとも誇りを持つことができたのは、まさにそのゆえだし、さらに言えば、そのゆえでしかなかった。

死者たちにはさして同情するには及ばないのだ。なぜなら、彼らはすでに一切の難問を解いてしまったのだから──まず手初めに、死という難問を。

かつて私は、死者を前にすると、「生れるということがこの男にとってなんの役に立ったか?」と自問したものだった。いまの私は、同じ質問を、いかなる生者をまえにしてもおのが心に発している。

死について考えることはいろいろな役に立つけれども、ただ、死ぬことにだけは役に立たぬと知る。

理屈などはあとからきて、否定を正当化し、支持するにすぎない。

哲学でも宗教でも、人間の心に媚びるものだけが繁盛する。

客観的であるとは、他者を一個の物として、屍体として扱うこと、他者に対して屍体運搬人の振舞いに出ることだ。

もし私たちが、他人の眼で自分を見ることができたとしたら、私たちは即座に消えてなくなるにちがいない。

人間は、怖るべきものの手前がわで生きている時なら、まだそれを表現すべき言葉を探しあてることができる。だが、ひとたび怖るべきものを内側から知ったならば、たちまち一片の言葉さえ見つからぬ羽目になるだろう。

みずから欲するときに自殺できると確信できなくなったとき、はじめて人は未来に恐怖するに至る。

才能は内的生活にとって障碍でしかない。

「いったいこの俺が、この世で何ごとをかを果たす男の面をしているかね?」

人が死を希うのは、漠然たる不安感に包まれたときだけである。明確な不安に襲われたとき、人は死から逃げる。

たしかに私は人間を嫌悪しているが、同じような気安さで、人間存在を嫌悪しているとは言い切れない。

自分が現にあるとおりの者であるゆえに自殺するのはよい。だが、全人類が顔に唾を吐きかけてきたからといって、自殺すべきではない。

いまや私たちは存在しており、この存在の小部分、つまりは不運の部分こそが、消滅することを烈しく怖れるのである。

責任という問題は、出生以前に私たちが相談を受け、現在ただいまそうあるごとき人間になってよい、と同意したのでなければ、そもそも意味を持ちえないはずである。

生誕とは不吉な、少なくとも都合のよくない事件だと認めれば、一切がみごとに説明できる。

ひとつの国を深く知りたいと思ったら、その国の二流作家たちを精読するがいい。

ある人間を摑まえて、その人柄ならびに行為を論評するのは、相手に対してまったく見当違いな優越を自負することにほかならない。

自己の重荷だけで結構、他人というお荷物を抱えるのなどはまっぴらである。

人は死を受諾しはするが、死の時期を受諾しはしない。いつ死んでもよい、ただし、死なねばならぬ時を除いて!

無意識は祖国である。意識は流刑だ。

肝心なことはひとつしかない。敗者たることを学ぶ──これだけだ。

繁栄する社会は、貧しい社会よりもはるかに脆弱なものである。

西欧。いい匂いのする腐敗物、香料入りの屍体。

ひとつの社会は、狭量を押し通すだけの力を持てなくなったとき、死の宣告を受ける。

長いあいだには、寛容は不寛容よりも、はるかに多くの災厄を生むものだ。──もしこの指摘が正しいとすれば、それは人間に対して加えうるもっとも重大な弾劾となるだろう。

私は取るに足りない人間だ。これには疑問の余地がない。だが、あまりに久しく、一角の者たろうと望んだせいで、ついにその欲を抹消できなくなってしまった。欲は、いわばかつて存在したことがあるゆえにいま存在し、棄てても棄てても私を苛み、支配する。

命じられた仕事をやってのける満足感は(特に、仕事を信じておらず、軽蔑さえしている場合)、その人間がまだいかばかり深く、賤民の群れに根を下ろしているかを示すものだ。

解説者は通常、解説されるものよりも老練であり、明晰である。被害者に対する殺し屋の優位だ。

以上、全て、E.M.シオラン『生誕の災厄』より

“特に気に入った箇所”の引用だけでこの量になってしまうという事実が(これでも前後をかなり省略している)、本書が三十郎氏にとっていかに魅力的な一冊であったのかを端的に表していると言えるだろう。また、共鳴した箇所を書き出してみるだけで、自身が抱える世界への悲観がいかなるもなのかに対して自覚的になることができる。本書の引用は、感想以上に自身の内面をさらけ出す行為となる。

内容もさることながら、「有毒な真理の酩酊」「この世に生れるという怪事件」「妄想の現行犯」「一冊の本は、延期された自殺」「この屍を孕んだ女」といった豊かな表現の数々が、本書をより味わい深いものにしていた。

生誕の災厄

生誕の災厄