オーガナザイズド

三十郎氏は映画とカメラと旅について語りたい。なお、実態はほぼ映画である。

『フランケンシュタイン』メアリー・シェリー

Frankenstein: or The Modern Prometheus/Mary Shelley

概要

ヴィクター・フランケンシュタインが怪物を生み出す話。

感想

伝記映画から映画化作品へと逆流し、ようやく辿り着いた原作小説。北極へと冒険に出掛けたロバート・ウォルトンが行き倒れの男に出会い、その男の名がヴィクター・フランケンシュタインウォルトンの姉マーガレットへの手紙からヴィクターの回想へと語り手が移行し、更にその中で怪物の回想へと切り替わる入れ子構造となっている。映画版ではフランケンシュタインの“ビジュアル”が目立っていたが、原作は、ヴィクターの“怪物を生み出してしまった事実への恐怖と後悔”や、怪物の“世界に受け入れられない悲哀”が前面に出た物語となっていた。

ヴィクターが頑張って生み出した怪物は早々に逃げ出して姿を消し、「あんなおぞましいものを作っちゃってどうしよう……」という後悔の日々が語られる。彼はショックで倒れてしまい、その後は療養生活を送ることとなる。「昔の人はすぐに病に倒れて、随分と体が弱いな」と思ったのだが、現代のPTSD的なものに名前がついていなかっただけで、認識はされていたのだろうか。ここで印象的だったのは、ヴィクターが怪物そのものを怖れているのではなく、自らの行為と怪物の“影”を怖れていることである。自分の犯した過ちが原因で家族が殺されてしまうという悲劇性を高めていた。副題の「プロメテウス」的な要素がよく出ている。

映画版第二作の『フランケンシュタインの花嫁』に登場する盲目の老人は、原作にモデルとなる人物(ド・ラセー)がいる。他にも少女を助けて罵倒される場面があったりして、同作が怪物の回想編を基にしていることが分かる。映画では怪物と老人が仲良くなっていたが、原作では彼と子供たちの生活に憧れた怪物が“観察”によって言葉を学ぶも、結局は自らの醜さ故に拒絶され、創造主への復讐を誓うという構成になっている。怪物にも感情移入できるような話になっているため、どちらかと言えば映画一作目よりも二作目の方が原作のエッセンスを上手く抜き出していたのではないかと思う。

優しそうな一家に拒絶された怪物は考える、「自分と同じくらい醜い伴侶ならば受け入れてくれるのではないか」と。そこで、ヴィクターに「女版の俺を作ってくれれば復讐はしない」と要求するわけだが、これが非モテ男の「地味女なら俺でもいけるかも」という発想に似ていて笑った。映画では「ギャーッ!!」の拒絶を食らったわけだが、原作ではヴィクターが「いくら醜女でも醜男は嫌なのでは?」「怪物はよくても女の方に復讐されるかもしれん」と賢明にも制作前に気付いていた。もっとも、怪物は親(=創造主)にすら存在を否定されるほどに醜いわけで、そんじょそこらの非モテ不細工とは格が違う。

本作の“怪物”の誕生には“科学の暴走”という側面があるものの、人間は科学の力を借りずしても同じことができる。人によっては“自分の遺伝子を引き継ぐ”だけでヴィクターとほとんど同じことができてしまうのは、悲しいまでに残酷な事実である。怪物の思考が非モテ男のそれに似るのも無理からぬ話なのだ。生まれてきたのが間違い。やはり反出生主義こそが正解である。

フランケンシュタイン (光文社古典新訳文庫)