Når dyrene drømmer(When Animals Dream), 84min
監督:ヨナス・アレクサンダー・アーンビー 出演:ソニア・ズー、ラース・ミケルセン
★★★
概要
母から娘に遺伝する獣病。
短評
“いい話”な北欧映画が続いたので、デンマーク製の北欧ホラーで口直し。牧歌的な暮らしや人間性は見る者を“ほのぼの”させるが、寒々しく閉塞的な村が“暖かい”ばかりでないことは自明である。思春期の少女の通過儀礼的な変化が何の隠喩になっているのかはよく分からないのだが、漁村のムラ社会的な部分がありありと伝わってきて、「怖い」というよりも「嫌な気分になる」一作だった。したがって、最後の展開はホラーというよりもダークヒーロー的である。
あらすじ
車椅子に座ったきりで物言わぬ母の面倒を見ながら、魚の加工場で働く少女マリー(ソニア・ズー)。胸にできた発疹に気付いた彼女は医師に相談するが、とりあえず様子見ということになる。その発疹から毛が生えてくるようになり、マリーは母の病気との関連を疑うようになる。
感想
マリーは早い段階で自身の“病気”の内容を認識しているようである。職場で出会ったダニエルに「怪物になる前に抱いて」と迫っていることからも明らかだろう。あとは、その受容の仕方が焦点となる。
マリーの母が車椅子に座ったきりの廃人なのは、病気そのものが原因ではない。病気を抑えるために薬漬けにされているのである。その病気の名は、「獣人化」。言わば、狼女である。恐らく母には人間を襲った過去があるのだろう。だからこそ“半植物人間化”を受け容れているのではないかと想像される。何か起きると村人たちは彼女を疑い、衆人の面前で服を脱がせて確認するといった人権無視の行為を当然のように行う(これは実際に母が人を襲っていたわけだが)。
その事実は村の中で“公然の秘密”となっているようで、娘のマリーに対しても猜疑心や差別感情が向けられている。彼女に対して直接的な攻撃に出る男たちがいるだけでなく、村全体で“忌むべき者”として扱われている印象である。マリーに加えられる嫌がらせ(ロッカーに魚)は見て見ぬ振りをされるし、親しくしていた男もいざという時には助けてくれない。“明らかな敵”とは異なる“傍観者”の存在が、マリーの孤独を浮き上がらせる。敵に対しては「殺っちゃえ、マリー」でいけるわけだが(事実そうなる)、傍観者に対しては何とも言えない不快感が湧いてくる。
加工場の“歓迎の儀式”が「廃棄物に新人を突き落とす」というもので、「皆経験してる」風にやっているのだが、当のマリーは手荒い歓迎に戸惑っている。これは歓迎としての限度を超えている。誰もおかしいと思わないのだろうか。これも声を上げにくい立場の人に対する多数派の横暴を見ているようで、なんだか嫌な気分になった。
このイジメ的構図を見ると、「田舎ってこうだよな……」と思ったりするわけだが、都市部であっても“小さな社会”では同じことが起こるか。田舎の場合は全体が小さな社会なので、逃げ道がないだけである。
とは言え、村人たちはマリー母娘をどう扱うべきだったのだろう。獣人は遺伝性らしく、“そうであること”に対する責任は本人たちにない。しかし、本人の意思や努力で獣人化を抑えることはできず、自由にさせておくと村人たちが被害を被る。折衷案が母のような“廃人化”になるわけだが、マリーからしてみればたまったものではない。それが“生きながら死ぬ”ようなものであることは、母の世話をしている彼女が一番よく知っている。
マリーの視点に立てば“敵”が“悪”に見えるが、彼らは村人たちにとっての“必要悪”と言えなくもない。逆の視点なら普通にホラー映画のはずである。結局のところ、“異物”との共存は不可能なのか。現代社会は「包摂」こそを良しとしているが、そのための代償は、誰が、どの程度引き受ける義務を有するのか。
父親役のラース・ミケルセンはマッツ・ミケルセンの兄で、『ハウス・オブ・カード』のペトロフ大統領の人。