オーガナザイズド

三十郎氏は映画とカメラと旅について語りたい。なお、実態はほぼ映画である。

『ザ・スクエア 思いやりの聖域』

The Square, 151min

監督:リューベン・オストルンド 出演:クレス・バング、エリザベス・モス

他:パルム・ドール

★★★★

概要

現代美術館に四角形を展示する話。

短評

思わず「うわぁ……」と、イヤ~な気持ちになるようなダークな笑いに満ちたスウェーデン映画。監督のリューベン・オストルンドは、前作『フレンチアルプスで起きたこと』でもそうだったったが、観客の突かれたくない所を突く技術に非常に長けている。「自分でも本当は分かっていたのかもしれないけれど……」な隠していた部分をあえて白日の下に晒し、土足で踏み込まれて情けない思いをする者を嘲笑う。なんて嫌な人なのだろうか(褒め言葉)。現代美術がテーマだと抽象的な展開に終始しそうで敬遠しがちだが、ある程度分かりやすい描写を含む“ちょうど良い”具合の親切設計だったように思う。

あらすじ

X-王立美術館で現代美術のキュレーターを務めるクリスティアン。新しく展示するのは、“ザ・スクエア”──「信頼と思いやりの聖域」であり、「この中では誰もが平等の権利と義務を持つ」という空間である。ある日、クリスティアンは出勤途中にスリに遭い、GPS追跡で犯人の住む建物を突き止める。アパートの全世帯に脅迫状を投函してスマホと財布を取り戻したクリスティアンだったが……。

感想

現代美術というのは素人にとっては意味不明なのが常であり、作品だけを観ても何のことだか分からない。本作も“ザ・スクエア”だけでは「何のこっちゃ……」となりかねないが、そこは“専門家”のクリスティアンが台詞で分かりやすく説明してくれる。映画冒頭のアン(エリザベス・モス)によるインタビュー内で「HPの『展示/非展示、場所/非場所~』の意味が分からないんですけど……」と尋ねられた彼は、「美術館に置けば何でも芸術になるのか」という意味だと噛み砕いて説明する(説明されても元の文章の意味そのものは分からない)。ザ・スクエアが劇中で有する意味は、正にその言葉の通りなのだろう。映画ではザ・スクエアとは直接関係ないはずの人間模様が描かれていながら、四角形の枠という前提を付与することで芸術として何らかの意味を持つことになる。

次に、クリスティアンは寄付者向けのスピーチでザ・スクエアにおける約束事を説明する。「助け合うべし」である。「そこで誰かが助けを求めたら、通り掛かった人には助ける義務がある」のだと。これが“枠”の内容である。これら二つの条件が揃えば、着目すべき点は分かりやすい。映画という“四角形”の中で“助けられる人”と“助けられない人”との対比である。言い換えれば、“無視される者”とそうでない者である。「平等の権利と義務」はザ・スクエアとは無関係に全ての人が有しているはずだが、実際には決してそうなっていない。現実には様々な形で無視されているものがある。

その点についても分かりやすいように序盤から誇張された描写が見られる。ホームレスやロマ族、身体障害者といった静かに“助けを求める”人々が無視されている一方で、大声で「助けて!」と叫ぶ女には足を止めざるを得ない(しかもその女はスリ)。クリスティアンのスピーチには皆が耳を傾けるが、コックが料理の説明を始めると誰も聞かないで移動を始める(ここで彼は声を荒げる)。聞いて欲しい言葉や助けを求める声ほど他人には届かないのである。それでいて、クリスティアンの方が(施しを断った)物乞いに助けを求めると、これがしっかり応えてくれるという皮肉である。

この「助けを必要としているのが逆だろう」という構図にも気不味い思いをするが、本作はそれを上回る気不味さに満ちている。「どうしてよいのか分からない……」という状況である。芸術家の講演中にトゥレット症候群の男が「おっぱい!」「ワレメ!」と叫び出すが、“寛容な”聴衆たちは「好きで言ってるわけじゃないから……」と彼を“受け入れ”ようとする。しかし、とある晩餐会に類人猿の完コピ演技をする“モンキーマン”が登場し、本物の類人猿の如く暴走すると、“受け入れる”のではなく“見て見ぬ振り”していることが鮮明となる(これは気不味いを超えて怖いレベル)。彼らは寛容なのではなく、ただ関わりたくないのである。この時の彼らの心中が自分でも嫌になるほど分かってしまうのだが、所詮は他人事なのでどうにも滑稽という二面性である。

モンキーマンが女性(Madeleine Barwén Trollvik)をレイプしそうになると一人の老人が立ち上がり、続いて皆で寄って集ってタコ殴りにする。トゥレット男とモンキーマンに共通していたのは、“本当は無視したいけれどできない”という点だろうか。子連れ出勤という先進国スウェーデンらしい描写が見られるのだが、泣き出した赤ん坊と彼らが似たような存在に感じられた。同時に、そこには自分で制御しきれないものへの恐怖がある。結局の所、人々の耳目を集めるか否かは、声の大きさだけに依拠するのである。Youtubeでの炎上マーケティングやアンとの会話(「権力はセクシー」という言葉から色々と滲み出ている)中の工事音が好例だろう。その大きさの程度によってのみ耳を傾ける価値があるのかの判断がなされる。

他に“無視”について印象的だったシーンは、クリスティアンがアンの部屋でセックスをする時に、彼女が部屋で飼っている猿を無視するというもの。これは“気になるけれどなかったことにしておく”タイプである。美女とセックスをしなくちゃいけないのだから、それが尋常ならざる違和感であろうとも、他のことを気に掛けている場合ではない。無視する必要がある。二人が交わった後に、意地でも自分で使用済みコンドームを処理しようとするクリスティアンが滑稽だった(コンドームを引っ張り合う姿の可笑しさと言ったら!)。「私がすると思うわけ?」と言われてしまうと確かに気になるが(何をするのか言わないのがまた良い。言わずとも“分かっている”のである)、あそこまで拒否できる自意識過剰感は凄い。普通ならば恥ずかしさに負けて手渡すだろう。ちなみに、エリザベス・モスの乳首には何かが貼ってあったように見えた。これは無視できない。

本作には美術館関係者が年甲斐もなくバカ騒ぎするパーティーの場面があるが、彼らがいかに上っ面だけの存在であるのかを象徴していたと言えるだろう。彼らこそが“無視”の主体というのが、無視の構図から見えてくるもう一つの問題点である。その中心がクリスティアン──平等を訴えるアートを展示し、気分が良ければ物乞いに金を恵むこともあるが、自分に直接の責任がある問題からは「富の再分配の問題だから」と逃げる。彼や彼の部下は「自分は関係ないのに」という言葉をこれでもかと繰り返す(アンの“中に入った”事実からも逃げようとしていた)。スーツ姿だとスラッとしていて格好いいのに脱ぐとだらしない体なのも、彼の外面と内面のギャップを表していただろうか。

無視とは、“見えない”こととは違う。“見えているのに”見えていないかのように振る舞う行為なのである。そんな彼らの姿を通じて、観客もまた自らが“無視”しているものについて意識せざるを得ない。それを浮き彫りにするのが“無視”を扱った物語であるというのがメタな構成の妙か。

アート関係者というかオサレ界隈の人々はアップル・ユーザーのイメージがあるのだが、ヒューレット・パッカード東芝のPC、加えてソニースマホが登場していた。何か意図があるのだろうか。