オーガナザイズド

三十郎氏は映画とカメラと旅について語りたい。なお、実態はほぼ映画である。

『藍色夏恋』

藍色大門(Blue Gate Crossing), 82min

監督:イー・ツーイェン 出演:グイ・ルンメイチェン・ボーリン

★★★

概要

友達の好きな人が自分を好きになる話。

短評

薄氷の殺人』で三十郎氏のハートを鷲掴みにしたグイ・ルンメイのデビュー作である。何と言うか、……爽やかである。三十郎氏の薄汚れた魂が浄化されて、そのまま存在が消え去ってしまうのではないかと心配になった。十代の瑞々しい恋愛模様が単なる惚れた腫れたに終わっておらず、実に繊細微妙な心模様が描かれている。甘酸っぱくてむず痒くなってしまうのとも違う。爽やか過ぎて自らの濁り切った精神を恥じ入った。三十郎氏は恋愛映画を苦手としているが、本作は素直に「素敵な一作」だったと言える。

あらすじ

体育の授業をサボる二人の女子高生が、瞳を閉じて将来の自分を思い浮かべる。モン・クーロウ(グイ・ルンメイ)には「何も見えない」が、リン・ユエチェン(リャン・シューホイ)は「娘と旦那様がいて……旦那様は……」と妄想する。“旦那様”たる想い人の正体は、同じ高校のチャン・シーハオ。ユエチェンに「彼女がいるのか聞いてきて」「手紙を渡して」と頼まれたクーロウは言う通りにするが、シーハオはクーロウの方が自分に気があるのだと思い込んでしまう。

感想

ユエチェンがとても面倒な女である。好きな相手に恋人がいるのか確認するよう友人に頼むというのはよくあるシチュエーションなのかもしれないが(確認されたことがないので知らない)、とにかくクーロウに頼り切りである。そのせいでシーハオとクーロウがいい感じになると彼女を無視したくせに、二人がつき合ってないと分かると「紹介して」である。

シーハオを盗撮し、シーハオ仮面をクーロウに着用させて踊り、シーハオが捨てた物を拾い集めてコレクションする。これは立派なストーカー行為とも言えるが、「シーハオのボールペンでインクが無くなるまで彼の名前を書けば思いが伝わる」なんて馬鹿げたおまじないが絶妙にリアルではないか(シーハオグッズの処分中に思い直して続きを書くも、木村拓哉に切り替えるのが面白かった)。「消しゴムに名前を書いて~」という願掛けが日本にもあることだし(少なくとも三十郎氏の時代にはあった)、この気持ち悪さこそが思春期にあるべき純情なのである。駆け引きではないのだ。

しかし、本作はユエチェンのリアルでダメな姿を通じて青春を感じる一作ではない。主役はクーロウである。“まあまあイケメン”のシーハオに想いを寄せられてまんざらでもないのかと思いきや、実は彼女はユエチェンのことが好き(シーハオが友人と「グラウンドでシコったら100元」と言ってじゃれ合っているので、彼の方がゲイなのではないかと思った)。これまたなんと繊細微妙な……。唐変木の権化たる三十郎氏が彼女の心中を理解し切ることなど不可能なのだが、“揺れ動いている”ことだけはよく伝わってくる。自分は友人のことが好きで、友人には好きな人がいて、その人は自分のことが好き。

このどうしてよいのか分からずに悩む複雑な役を、強豪校の運動部みたいな髪型と垢抜けないファッションの組み合わせのグイ・ルンメイが好演している。序盤はぶっきらぼうで何を考えているのか分からないような役だと思ったが、彼女が同性愛者であると分かれば戸惑いの表現なのだと納得した。彼女が(ポロシャツに乳首が浮いている)体育教師に「キスしたくない?」と尋ねたのは、てっきりシーハオがキスしないので自分の魅力を疑ったのではないかと思ったが、“男とのキス”に意味があったのだ。最後に晴れ晴れとした笑顔を見せる彼女の輝きに心を奪われた。

クーロウの失恋を見抜いた母が、自身の離婚経験を「知らない間に過ぎてた」と娘に語る。三十郎氏は「そんなもんだよなあ……」と納得したのだが、その直後に映る母の表情は、全く過ぎ去っていないことをありありと物語っている。きっとクーロウやユエチェン、そしてシーハオの失恋も、“過ぎ去って”しまうものではないのだ。その体験は彼らの身となって残り続け、その後の人生に影響を与えるのである。それが青春の一コマなのである。

この爽やかな青春を経験して、クーロウの思い描く通りシーハオは素敵に成長することだろう(彼女の性指向を受け入れた上での「いつか男を好きになれたらまず自分に声を掛けろ」は、“まあまあ”ではないイケメン・ワード)。もちろんクーロウも(人任せなユエチェンはどうだろう)。実に清々しい余韻を残す。

素敵に成長しなかった三十郎氏には、この“青春”が欠けていたのだ。「〇〇と付き合いたい」という話に「タイムマシンがあったらどの時代に行きたい」と同程度の実現可能性しかなく、『アニー・ホール』の影響を受けて「仮に自分を好きになる女がいてもろくな相手ではない」と決めつける非生産的な男子高校生が思い悩むは人生の無意味さばかり。三十郎氏にとって本作の青春模様は、“過ぎ去りし日々”ではない。訪れてすらいない。取り戻せるものでもないため、死ぬまで青春コンプレックスに苦しむより他にない。思春期に経験しておくべき事というのは確実にある。斜に構えて逃げていると、三十郎氏の如き惨めなおっさんになりかねない。

ところで、どうして恋には夏のイメージがあるのだろうか。人間にも発情期があるのか。