オーガナザイズド

三十郎氏は映画とカメラと旅について語りたい。なお、実態はほぼ映画である。

『マザー・テレサ』

Madre Tresa, 110min

監督:ファブリツィオ・コスタ 出演:オリビア・ハッセー、セバスチャーノ・ソマ

概要

マザー・テレサの半生。

短評

偉人マザー・テレサの業績を勉強し、高校生の頃の三十郎氏の心を鷲掴みにしたジュリエットが綺麗に老いた姿を確認する。それだけで十分のはずだった。しかし、「わたしのやる事はぜんぶ神の意志なの!だから正しいの!」方式で成功していく紋切り型の完璧超人として描かれるテレサの姿に違和感を覚え、解決した風で全く解決していない問題がどうなったのか調べてみると、彼女に対する批判的意見が発見され、そちらに納得させられてしまった。本作は彼女を好意的に描いているはずなのに、イメージがとても悪くなった。

あらすじ

1946年、カルカッタ修道院で女学生たちを教えていたマザー・テレサオリビア・ハッセー)だったが、院外の惨状を目の当たりにし、「貧者に奉仕せよ」との啓示を受ける。彼女は、教会や地元民と対立しながらも、恵まれない子供たちの支援や、ホスピス、平和の村の建設に奔走する。

感想

「神の意志です」とか言い出す人間を信用してはいけない。自分の意志である。テレサは、「神の意志」という言葉を印籠代わりに、面倒事と負担は周囲に全て押し付け、半ば喝上げに近い寄付を強要し、次々と目標を達成していく。反対者はご都合主義的にポンポンと手のひらを返してくれる。そうすると当然活動の規模が拡大し、優先順位をつけなければならない場面も出てくる。ここでも彼女は自分の責任を回避し、場当たり的に対応していくのみである。

彼女には行動力と人を動かす力があったのだろう。これは美点である。しかしながら、その影響力の行使に必要なだけの能力がなく、伴う責任を自覚していなかったように思われる。行政の許可を得ず、予算を顧みることなく事業を強行し、問題が起きれば他人が解決してくれるのを待つか、ただ「祈れ」と言う。「貧者を救う」という盾がなければ、彼女は暴君である。自分の意志を神の意志にすり替えたカルトである。自分に都合の悪いことは「神の意志に反する」なんて理論が通用してたまるものか。

これは「映画の描き方が下手」で片付けてよいのかもしれないが、いくつか気になる描写があったので調べてみた。彼女が他宗教の寺院を買収してホスピスに改造するシーン。「誰も改宗させる気はありません」と発言しているが、末期の病人に対して十分な情報を与えることなく洗礼を施していたと告発されている。そもそも他宗教の寺院を利用する時点で裏の目的が透けて見えないだろうか。他に、彼女が看護師の指示を無視したり、ゴリ押しで子供を入院させるシーン。映画では後で医者がOKを出してくれるが、彼女が運営した医院では医学的知識に基づかない行為により患者が危険に晒されたと告発されている。詐欺を働いた男から資金提供を受けた問題等についても解決されたかのように描かれているが、あれで納得できる大人はいないだろう。

彼女のワガママ放題が極まるのは、自身が立ち上げた協会の解散である。彼女にとっては他人の努力や大局観などはどうでもよくて、ただ自分の目の前にある事象にしか興味がなかったのではないかと推測される。それ故に救えた命もあるのだろうが、人の上に立つべき人ではない。あくまで街角の聖人に留まるべきだったのだ。本作は彼女を讃えているはずなのに、カトリックによるメディア・キャンペーンという見方の信ぴょう性が高まる結果となった。三十郎氏は元来宗教に批判的な立場だが、彼女は立派な人なのだと思い込んでいたので残念である。この感想と映画の意図は明らかに反する。批判という裏の意図がある映画なら大したものだと思う。

三十郎にとっては子供騙しにもならないご都合主義だが、宗教的な価値観の下では「神の意志は成される」ものであり、いかなる形であれ達成されれば「神の御業」としての性格を帯びる。やった者勝ちの世界である。

マザー・テレサのイメージと結びついている白地に青線の修道服。白は純潔を、青は聖マリアを意味するそうである。

マザー・テレサ (字幕版)

マザー・テレサ (字幕版)

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