オーガナザイズド

三十郎氏は映画とカメラと旅について語りたい。なお、実態はほぼ映画である。

『オープニング・ナイト』

Opening Night, 144min

監督:ジョン・カサヴェテス 出演:ジーナ・ローランズ、ベン・ギャザラ

★★★

概要

年増の役を演じたくない年増の女優の話。

短評

バードマン』みたいな設定の映画だった。この映画の存在すら知らずに同作を絶賛していたなんてお恥ずかしい……とは思うものの、三十郎氏の好みは断然『バードマン』の方なので気にしないことにする。本作をもってシネフィルWOWOWプラスで配信されているカサヴェテス作品は全て観たことになるわけだが、中には面白い映画があっても作風が自分好みでないことが分かった。本作はカサヴェテスの作風に沿った“舞台”という設定を用意したことで、良い部分と苦手な部分の両方が強く出ていたと思う。

あらすじ

舞台女優のマートル・ゴードン(ジーナ・ローランズ)。舞台『第二の女』の上演を控える彼女だが、出待ちしていた熱狂的ファンの少女ナンシー(ローラ・ジョンソン)が事故死する現場を目撃して精神状態を崩してしまう。リハーサルはまともにできず、台詞や演出を勝手に変更し、舞台は危機的状況に追い込まれる。おまけに初日の夜にマートルが現れない。それでも舞台は幕を開ける。

感想

舞台の外での出来事が舞台に反映されていくタイプの物語。ナンシーの死もそれ自体が意味を持つわけではなく、彼女が幻覚としてマートルの前に出現することで、若き日の自分を想起させる役割が与えられていたように思う(外見も少し似ているが、目尻や手の質感が対比と言えるほどに異なる)。マートル曰く「老人役で成功しちゃったら老人だと思われちゃうでしょ」とのことで、「若さが死んで第二の女が顔を出す」と説明される劇中劇的な葛藤が、舞台という枠を越えて現実で繰り広げられる(それなら最初からオファーを受けなければいいのに……)。その果ては、演者とキャラクターの垣根さえなくしてしまう。

それでもマートルは「君は女じゃない。女優だ」と告げられるように女優なのである。泥酔状態で初日の公演に現れ、監督(ベン・ギャザラ)や脚本家が見ていられずに席を立つほどの滅茶苦茶な演技を披露しながらも、コントと化した舞台が観客に受け入れられてしまう。この結末に『バードマン』感があったのだが、リーガンと違ってマートルが舞台の成功を目指して努力しているとは思えないし、実際の舞台がちっとも面白いと思えない。いい加減なものを見せられても喜んでいる観客を嘲笑している感じがした。

本作で面白かったのは、現実の苦悩が舞台上で昇華されることにより、虚構が現実よりも現実感を持っている点である。それはビジュアル面の演出にも反映されており、マートルの住む部屋はだだっ広くて家具が少なく、まるで舞台のセットのようである。実際の舞台のセットの方が少しは生活感があるという奇妙な状態になっていた。

カサヴェテスは即興演出・即興演技を旨とする監督なのだろう。自身が俳優出身ということもあり(本作には舞台上の夫兼現実のパートナー役として出演)、俳優の演技に対して高い信頼を寄せているように思う。恐らくその点が三十郎氏の苦手意識に繋がっていて、一本の映画として作品全体をコントロールすることよりも演者が披露した演技をそのまま見せることが重視されているように感じる。演者とキャラクターが渾然一体となって繰り広げられた演技を“使い過ぎる”が故に冗長に感じられ(降霊術のシーンなんて丸々カットして別の話を撮り直すべきだし、泥酔演技も上手いとは思えない)、全体にまとまりを欠く結果となっているのではないだろうか。映画というメディアを使用してはいるものの、やっていることが舞台演劇的なのではないかと思う。

これは映画としては少々“生き物”過ぎる。三十郎氏も「生の感情」や「瑞々しく切り取られた」といった表現をよく用いるが、これは“作り物”としてコントロールされた映画から一瞬だけハミ出すような演技や演出にこそ輝きを感じるのであって、最初からコントロールを放棄するのとは全くの別物である(逆に究極のコントロールが全編ワンショットだろう)。「映画」と一口に言っても、映像メディアであるという点以外は、(少なくとも今の)三十郎氏が好きな「映画」とは違う何かなのだと思う。しかし、カサヴェテスに影響を受けたであろう監督たちが三十郎氏の好きな映画を撮っているわけで、単純に編集や演出の粗さが不親切なだけの気もする。

オープニング・ナイト (字幕版)

オープニング・ナイト (字幕版)

  • メディア: Prime Video