オーガナザイズド

三十郎氏は映画とカメラと旅について語りたい。なお、実態はほぼ映画である。

『ローマ法王の休日』

Habemus Papam(We Have a Pope), 105min

監督:ナンニ・モレッティ 出演:ミシェル・ピコリ、イエルジー・スチュエル

★★★

概要

教皇になりたくない新教皇が逃亡する話。

短評

教皇も大変だなぁ……。本人も周囲も深刻そのものの状況なのに、それがどうしようもなく可笑しいというブラックな一作。信者から教えを求められる神父たちも、皆一人ひとりの人間なのである。なお、本作は邦題も字幕も「法王」表記だが、昨年のフランシスコ教皇来日を機に日本国内では「教皇」表記に統一されたようなので、本稿は「教皇」の呼称を使用する。

あらすじ

教皇の死去を受けて開催されたコンクラーベ教皇選挙)。世界中のカトリック教徒たちが固唾を飲んで見守る中、当の候補者である枢機卿たちは「私には無理」「どうか私を選ばないで」と必死に祈っている。ニ度の必要票数未達の末に選ばれたのはメルヴィル。万雷の拍手の中、彼は微妙な表情をしている。「汝は教皇選出を受け入れるか」の質問にも「……」。周囲に煽られて「はい」と答えたものの、広場で待つ信者たちへの挨拶を前に「やっぱり無理!」と逃げ出してしまう。

感想

枢機卿たちの「絶対に教皇になりたくない!」という内心の声。彼らも一応はカトリック教会内部の出世競争を勝ち上がって来ただろうに、「我こそが新教皇に相応しい!」という上昇志向と権力欲の強い猛者はいないものなのだろうか。そんな人たちでも躊躇してしまう程の重責ということなのか。それはさながら内申点を意識する早熟な生徒の存在しない学級委員長選出の光景のようである。「選出の経緯は抹消される」という説明が挿入されているように現実における内実は分からないが、立候補制でない選挙には色々と問題があると思う。

事態もメルヴィルも彼を逃してしまった報道官も深刻そのもの。それなのに可笑しいというブラックな状況も楽しいが(メルヴィルの体型に似た近衛兵が代役として偽装工作する展開は特に笑える)、「自分が教皇になるかもしれない」というプレッシャーから解放された枢機卿たちのなんと晴れやかなことか。メルヴィルが引きこもっているのに、シュークリームとカラヴァッジョ展目当てで観光に行こうとしたり、終いには出身地区対抗のバレー大会を始めてしまったり。本作はシリアスなのにコミカルな部分と普通にコミカルな部分が対照的に描かれ、そのどちらも笑えるのである。

ラストは驚愕である。メルヴィルが市井の信者たちと触れ合い、自らを見つめ直すことで新教皇として……という展開だと誰もが予想するであろう。ところが、少し様子が可怪しい。彼はヴァチカンに戻らざるを得ない状況になるが、彼が新教皇としての責務を受け入れるに至った理由が分からないままである。そのまま信者たちの前へ姿を現すメルヴィル。そして……である。嘘だろう。呆然とした。しかし、前述の経緯を考えれば、納得できないが納得の結末という気もする。

この世界規模の絶望的で不幸な結末は、最高にブラックでコミカルな結末とも言える。しかし、三十郎氏は“それもあり”なのではないかと思う。メルヴィルは世界中の期待を裏切ることになったが、そのまま教皇になっていても彼がその重責を全うできたとは思えない。彼は元役者志望の一人の人間に過ぎない。天皇が現人神ではなく人間であったように、一個人に神の導きを託そうという発想自体に無理がある。本作には精神科医が聖書のエピソードを「これは鬱病の症状」と断じているシーンがある。メルヴィル教皇になっていれば鬱病になっただろう(既になっているとも言える)。他の枢機卿たちも睡眠薬向精神薬に頼っている。我々庶民も同じである。時には逃げることも必要なのだ。

もっとも世界中の指導者たちがプレッシャーから逃げ出してばかりでは困ったことになる。これは個人の尊重という現代において支配的な価値観とトレードオフの問題である。それは破滅的な結末へと導くものなのか。それとも指導者と庶民との新たな関係を生むものなのか。庶民が個人として尊重されたいのならば、指導者も同様に尊重されない理由はない。逃げ出す弱さをも受け入れるのならば、それは末端まで責任が分散されることを意味する。「お願い、何とかして!」だけでは何ともならない。それも困るなあ……。人間はかくも身勝手である。

ローマ法王の休日 (字幕版)

ローマ法王の休日 (字幕版)

  • 発売日: 2013/11/26
  • メディア: Prime Video