オーガナザイズド

三十郎氏は映画とカメラと旅について語りたい。なお、実態はほぼ映画である。

『スター・ウォーズ スカイウォーカーの夜明け』

Star Wars: The Rise of Skywalker, 141min

監督:J・J・エイブラムス 出演:デイジー・リドリーアダム・ドライヴァー

★★

概要

パルパティーンが復活する話。

短評

三十郎氏のスター・ウォーズへの愛は深い。一方でディズニーへの嫌悪も強い。ルーカスフィルムがディズニーへ売却された時には大いに落胆した。「それでもスター・ウォーズだから……」と『フォースの覚醒』を観に行き、無味無臭の工業製品と成り果てた姿に失望した(『ローグ・ワン』は元々面白い話の穴を埋めるだけの作業なのでそこそこ)。『最後のジェダイ』の公開前に自分の心からスター・ウォーズへの期待が消え失せていることに気付いたが、再度「それでもスター・ウォーズだから……」と観に行き、完全に諦めた。かつて熱烈に愛した女性が大嫌いな男に身も心も汚されていく姿を直視するのは大変に辛いが、今回は「それでもスター・ウォーズだから……」ではない。今回はお葬式である。いくら喪主が憎かろうと参列するのが義理というものだし、別れのための儀式なのである。さようなら、愛しのスター・ウォーズ。ルーカスよ、永遠に。

感想

元々が敗戦処理であったことには同情する。しかし、J・J・エイブラムスは、『フォースの覚醒』では後先考えずに風呂敷を好き勝手に広げて、『最後のジェダイ』にも製作総指揮として参加しているにも関わらずライアン・ジョンソンにぶん投げて“ああなった”わけで、今回はツケが回ってきたと言うべきだろう。 壊滅状態の物語を大団円に導くためには当然荒療治が必要であり、強引さとご都合主義、そして「そんなものはなかった」のオンパレードである。これは仕方がない。そうするしかなかったのだ。本人もそれを理解した上で、完全に予定調和の展開だけをなぞることにしたのだろう。果たして完全に無駄でしかなかったEP8の寄り道がなければどうなっていたのだろうか。

全編が超絶駆け足で進むのは、観客に疑問を抱く隙を与えないためなのだろう。それでも既に冷め切っている三十郎氏は気付いてしまう。C-3POのバイパス手術なんてBB-8にやらせればいいのに別の惑星まで飛んだのは、常にキャラクターを動かし続ける必要があると感じたためだろう。本当はレイやベンの心情の掘り下げに時間を割くべきなのに、一度でも立ち止まると観客が考える余裕を持ってしまうことを恐れたのだろう。頑張ってはいたが、最後まで過去の遺産に頼り切りで強引に畳んだだけという印象が残る。

思い返すと三十郎氏がエイブラムスに違和感を覚えたのは、『フォースの覚醒』でカイロ・レンの声が「フガフガ言ってて聞き取れない」とポーがバカにするシーンである。これまでパロディで散々べイダーがバカにされてきたネタである。「同人のノリを本編に持ち込むな」という怒りと共に、この冷笑主義的な姿勢はスター・ウォーズに対する愛の欠如から来るものではないかと感じた。エイブラムスはスター・ウォーズに関わる前に『スター・トレック』の監督をしている男である。バルセロナからレアル・マドリーよりも禁断の移籍である。ライアン・ジョンソンと同じくこいつもトレッキーが送り込んだスパイなのだ。

という陰謀論は置いておいて、どうもこの冷笑主義スター・ウォーズに合わない。本作でもカイロ・レンとハックスのマスクについてのやり取りでそういう傾向が見られた。これはミレニアル世代以降向けの笑いで三十郎氏以外には受けているのだろうか。そうでなければ、スター・ウォーズの世界を小バカにしたような傲慢さを感じるのである。「愛もリスペクトもないけど金のためにやってるだけ」という姿勢が滲み出ているような気がする。コメディリリーフにはC-3POがいるし、皮肉はハン・ソロの代わりに誰かに言わせればいい。代わりとなるキャラクターを生み出せなかったのは、紛れもなくハン・ソロに頼ったエイブラムスの責任だろう。

フォースがインフレし過ぎである。前作の宇宙遊泳も酷かったが、本作はそれに輪をかけて何でもありになっている。恐らくは前作でルークがやった幽体戦闘を流用したのではないかと思うが、本作の幽体は物理干渉する。その上、物質が二つの空間を移動する。意味不明である。レイとベンがフォースのレベルで惹かれ合ってくっ付くのは結構だが、その割には居場所を把握できていない場面が目立つ。その上、場所を移動せずして物理戦闘できるのなら、ベンはデス・スターの残骸へと赴く必要はない。三十郎氏はてっきり幽体モードで戦っているのかと思った。更に、皇帝への誘導デバイスを探すレイの元へ、自分の持っている誘導デバイスを持参するとは何事か。前作では“後に引けない感”が出て少しだけ魅力的になったベンだったが、本作では正真正銘の阿呆だった。カイロ・レン騎士団も金魚の糞みたいに連れ立って歩くかストーキングするばかりで、ようやく活躍が見られると思ったらショボくて残念。

ショボいのは騎士団だけでなく、レイのライトセーバー戦も最後までショボいままだった。これまでの誰よりもフォースを使いこなしているのに(回復魔法はシスの技術なのだろう)、ライトセーバーの扱いは向上しないのか。話の都合に合わせて能力を与えているだけで、彼女自身が体得した感じが一切しない。迫りくるベンのファイターに背を向けて走り出し、クルッと宙返りするシーンはインド映画のようなダサさだった。あのシーンのベンは何がしたかったのだろう。攻撃するなら遠距離で撃つべきだし、どうしても殺したくないなら轢こうとせずに降りてから話に行けばよい。そもそもフォースがインフレしているので、直接会わずとも会話できるだろうに。あと、シディアスのフォース・ライトニングを二刀流で受け止める決めポーズはセンスが90年代だと思う。

映像的にはもちろん迫力があるのだが、ルーカス時代のスター・ウォーズと違って「初めての映像体験」という感じではない。三十郎氏が多くの映画を観て慣れてしまったこともあるし、他の映画のクオリティが大きく向上したこともあるだろう。確かに凄いのだが、「スター・ウォーズならこれくらいはやるよね」の範疇に収まってしまっている。

大きなスクリーンでは見るに堪えないブスの出番が減ったことと、砂漠でのチェイス中にトルーパーが宙を舞うギミックは面白かったので褒めておこう。前作で「愛する人のためよ」と出しゃばってきたブスが、フィンが黒人女性といるのを見てあっさり引き下がり、更にその黒人女性がダンディな年上のおじさまに寝取られそうになっているのは笑えた。

三十郎氏は、『エンドゲーム』によってMCUという観覧車から一度降車し、本作によってスター・ウォーズというジェットコースターからも降りた。これでディズニーからは撤退である。もう邪悪な鼠の汚い商売には乗せられない。幼い頃にディズニー・コンテンツに親しまず、映画をよく観るようになった中学生時代には「ディズニーなんて女子供の見るもの」と断じ、学生時代に可愛い彼女とTDRに行ってディズニーとの歴史的和解を迎えるようなこともなく青春を空費し、そのまま色々と拗らせたおじさんへと成り果てた三十郎氏である。スター・ウォーズという鍵をもって再び和解のチャンスを得たが、それは果たされることなく、今後は「愛するスター・ウォーズを台無しにしやがって」と一層の激しい憎悪を燃やしていくだろう。キャスリーン・ケネディは三十郎氏の「死んでほしい人ランキング」の上位に座している。

ただ、三十郎氏も理解している。『ファントム・メナス』の公開時に猛烈に反発していた懐古主義者に自分がなってしまっただけだということを。及第点の出来であっても、思い入れが強過ぎて不満ばかりが表出してしまっていることも。三十郎氏は誰が何と言おうと新三部作が好きである。だってそれが三十郎氏にとってのスター・ウォーズなのだから。それに、創造主ルーカスが作ったのだ。ルーカスが唯一の答えなのだ。「こんなのスター・ウォーズじゃない」と放言する者がいれば、そいつは異端審問に掛けられて焼かれてしまえばよい。現行の三部作が好きだという新たなスター・ウォーズファンがいるならば、かつての三十郎氏のように自分を強く持ち、現在の三十郎氏のような新懐古主義者に負けず、「好きなものは好きだ」という自分の気持ちを大切にしてほしい。その方が叩き甲斐がある。

 

*追記

EP1~9を総合すると、「スカイウォーカー家の物語」が「パルパティーンの物語」へと塗り替えられてしまったことになるのか。やはり鼠は邪悪である。