オーガナザイズド

三十郎氏は映画とカメラと旅について語りたい。なお、実態はほぼ映画である。

『アイリッシュマン』

The Irishman, 209min

監督:マーティン・スコセッシ 出演:ロバート・デ・ニーロアル・パチーノジョー・ペシ

★★★★★

概要

トラック運転手とアメリカの現代史。

短評

色々と集大成である。『ミーン・ストリート』にはじまったスコセッシとデ・ニーロのギャング映画の歴史は、『グッドフェローズ』と『カジノ』を経て本作へと辿り着いた。その間46年。監督も俳優も、そして世界も歳を重ねる。描かれる対象がチンピラからギャング界の大物へと変遷してきたが、本作には初めて“その先”が描かれるという変化がある。心のどこかでは分かっていたのかもしれない。来るべきものが遂に来てしまった。人生を描くというのは、こういうことなのか。

あらすじ

トラック運転手のフランク・シーラン(ロバート・デ・ニーロ)が、積み荷の横流し(これが当然の様に行われていて、訴えられても無罪放免なのが可笑しい)にはじまるマフィアの仕事を請け負うようになり、遂にはマフィアのボス、ラッセル・バッファリーノ(ジョー・ペシ)や、全米トラック運転組合のトップ、ジミー・ホッファ(アル・パチーノ)と付き合うまでの大物になる。彼の人生を通してケネディ大統領の誕生と暗殺をはじめとするアメリカの現代史が裏側から浮かび上がってくる。

感想

本作は、老いたフランクが老人ホームで誰かに語りかけるという形式で、①死を待つだけの老いた時代、②マフィアに接近して成り上がる時代、③その二つを繋ぎ、隔てる一つの時期(結婚式を最初でなく目的地にしたのは『ゴッドファーザー』を意識したのだろうか)、の三つの時間軸が交錯する。②の時代については、おおよそいつものギャング映画で、ユーモアを交えつつバンバン人を殺していく。バンバンと撃つし、ボンボンと爆発して楽しい。個人を通じてアメリカの一時代が描き出される構造も秀逸。ただ、そこにはフランクの娘ルーシー(子役はルーシー・ガッリーナ、大人はアンナ・パキン)の姿が強調されており、これは今までのスコセッシ映画にはなかった視点である。これと③の出来事が、映画の終盤に描かれる①の時代に強烈に効いてくる。

これまでの映画では、ギャングやマフィアとして最後に失墜しようとも、そこに悲しさや哀愁はなかった。それが本作ではどうだろう。杖が無ければ歩くこともできず、生前に棺桶や墓地を選んでおく年齢となれば、嫌でもそれまでの行いについて考えさせられる。そこには単純な後悔だけではない複雑な感情が浮かぶ。疾走感溢れるギャングとしての黄金期と比較して、人生の終盤はモノローグも減り、意図的に時間を長く感じるように演出されているように思う(Netflixオリジナルでなければもっと短くまとめられてしまっていただろう)。残された時間は少ないが、今までのツケを払うかのように苦しむ時間は永遠のように長い。仲間たちが皆先に逝ってしまっても、フランクにだけは向き合うための時間が残されてしまった。これが“その先”である。そして、“その先”は見たくなくて、目を逸らしてきたものなのかもしれない。やはり報いは避けられないのか。フランクのように波瀾万丈な人生は送っていなくても、自分が死ぬ時に何が残っているのか考えさせられる非常に内省的な内容だった。

やたらとガソリンとダイナマイトの組み合わせが好きだという面はあるが、フランクによる暗殺は『グッドフェローズ』や『カジノ』のように残虐なものではない。請け負った仕事を、淡々と最小限の動きでこなしている印象である。恐らくは従軍経験がその後の人生を形作る原体験となったのだろう。殺しは仕事である。これを手段とした者はそのために苦しみ、これを目的とした者はそのために命を落とす。捨てたくても捨てられない過去であり、捨てるべきでも固執してしまう栄光である。

ジョー・ペシがキレない。一度もキレないし、自ら手を下すシーンは一度もない。それでも抜群にキレている。ペシって、こんないぶし銀の演技ができる役者だったのか。キレなくても本作で一番怖いのはラッセルである。たくさん人を殺すシーランよりも、短気なホッファよりも、静かなラッセルが怖い。特に「殺せ」という言葉を使わずに理解させる姿が印象的だった、それもサラダをつくりながら。それはきっとマフィアのボスという設定だけでなく、そこに内包された凶暴性をこれまでの映画のおかげで嫌と言うほど知っているからなのだろう。物語としての性質以外にも、役者のキャリアも本作が集大成なのである。本作で描かれる晩年は本作の登場人物だけの晩年ではない。これまでの映画や本人たちの積み重ねがあってこそのように思えて感慨深い、と言うよりもなんだか寂しくなる。リアルタイムで追いかけてもいないくせに一つの時代が終わってしまったかのように感じる。ペシかアル・パチーノのどちらかが助演男優賞を獲るのは間違いないように思うが、案外同作品で票が割れてしまったりするのだろうか。

最新技術により顔が若返った三人の俳優たちだが、流石に身体の動きまでは若返っていない部分もある。フランクがペギーを小突いた店の主人の手をへし折る際の蹴りには、いまいち勢いが感じられない。刑務所でホッファに殴り掛かるトニー(スティーヴン・グレアム)の躍動感と比べれば、その差は大きい。こればかりはデ・ニーロ・アプローチでも何とかならなかったか。顔の変化は若返りよりも老け込む方がインパクトがあった。往年の荒くれ者たちであることが信じられないほどシワシワにショボくれている。この晩年の姿こそが本作で描きたかったものなのだろう。

冒頭のフランクが語り掛けている相手が誰なのか気になったが、その正体が明かされることはなかった。神父やFBIには口を閉ざしたままだったし、ペギーは話を聞いてくれない。老人ホームの呆けて話の通じない相手に一方的に話すことで自分と対話しているのかもしれないし、正面には誰もいないので本当に自分に語り掛けているかもしれない。彼は誰にも話せない過去を抱えたまま死ぬことになる。悔恨の念を語る相手がいないというのも、彼が受けている報いの一つなのではないか。死ぬ前に「やりすぎだった」とフランクに打ち明けられたラッセルとは対照的である。最後に残された者は、神に話を聞いてもらうしかない。

パンをワインに浸して食べるシーンが格好よかったのだが、この演出すらも終盤には切なくなってやられてしまった。人は歳を重ねても同じことをするが、同じようにはできなくなる。彼らがワインを楽しむ一方で、ホッファが“カナダドライ”を飲み続けている演出は気が利いている。

原作のタイトルである「I Heard You Paint Houses」と思しきテロップが、日本語で「聞いたぞ お前が─ 家のペンキを塗っていると」になっていたのは残念(設定を英語字幕に変更してもそのままだった)。英語のテロップをそのまま流して下に字幕をつければいいだけなのに。いきなりゴシック体の日本語だと雰囲気が台無しである。日本語テロップに喜ぶ日本の観客は少ないだろうに。Netflixには英語に戻す柔軟な対応をお願いしたい。

従来は一度しか観ていない映画には四つ星を最高評価にして運用してきたが(「何度観ても抜群に素晴らしい」というのが三十郎氏による傑作の基準であるため)、規則を曲げることにした。どうせ何度も観るに決まっている。三十郎氏がいい加減なのか、この映画が凄いのか。きっとその両方である。

 

*追記

こちらの記事によると、フランクが語りかけている相手は原作本の著者チャールズ・ブラントなのだとか。危険過ぎる関係者たちが死ぬのを待った上で、色々とアレなことを加筆したそうである。なるほど納得。誰にも口を割らなかったフランクから真実を引き出した著者が凄いのか、それともフランクにも誰かに吐き出したい本音があったのか。

アイリッシュマン(上) (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

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アイリッシュマン(下) (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

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