オーガナザイズド

三十郎氏は映画とカメラと旅について語りたい。なお、実態はほぼ映画である。

『ジョーカー』

Joker, 122min

監督:トッド・フィリップス 出演:ホアキン・フェニックスロバート・デ・ニーロ

他:金獅子賞、アカデミー賞主演男優賞ホアキン・フェニックス)、作曲賞(ヒドゥル・グドナドッティル)

★★★★

概要

ヒーローとしてのジョーカー。

短評

コメディ映画の監督トッド・フィリップスがスーパーヴィランを題材に映画を撮ったのに、コメディでもヒーローでもないというシリアスな映画である(それでも笑っていいのだと思う)。途中まではホアキン・フェニックスの演技が凄い『キング・オブ・コメディ』×『タクシードライバー』の域を出ないかなと思いながら観ていたが、暴徒たちから喝采を浴びるジョーカーの姿には震えた。ヴィランをヒーローにするっていうのはこういうことですよ、『スーサイド・スクワッド』さん!

感想

アメコミ界隈では元々有名だったのだろうが、『ダークナイト』の成功により界隈の外にまで訴求力を広げた人気者のジョーカーさん(ジャック・ニコルソンのジョーカーも良いが、当時の盛り上がりやその後の影響までは分からないのでここでは無視するものとする)『ダークナイト』人気がなければ本作の企画も実現しなかっただろう。三十郎氏も大好きなジョーカーの誕生秘話が描かれることに対しては不安があった。話の内容が嘘か本当か分からない得体の知れなさが彼の魅力の一つだったため、オリジンを固定することで、ある種の神秘性が薄れないかというものである。その辺りはゴッサムという舞台や設定を借りた別の物語にしてしまうことで、過去のジョーカーのキャラクターを毀損するような事態は避けられていたように思う。バットマンと対峙しないジョーカーはある種の偶像のままであり、状況次第では誰がジョーカーとして祀り上げられてもよいのだから。

本作の明らかな下敷きとなっている『キング・オブ・コメディ』や『タクシードライバー』を事前に視聴しておくべきかについては微妙なところである。オマージュの範疇を超えた引用が多々あり、理解を助けてくれるのは間違いない(逆に両作でほとんど完成された物語に追加要素があるだけというのが、本作に最高レベルの評価を与えられない理由ともなる)。監督も観客が両方の作品を知っていることを前提として製作しているだろうし、アーサーを真に成功したトラヴィスとして見れば対比も楽しめる。しかし、知らずに観た方が新鮮な驚きが得られるのではないかという点もあり、いくら鳥頭でも全く知らない状態にまでは戻れない三十郎氏としては何とも言えないところである。

アーサーとパプキンやトラヴィスとの大きな違いは、彼の起こしたムーブメントが大きく広がったところだろう。パプキンやトラヴィスはその行動により大衆の人気を得たが、アーサーは象徴となった。奇人としての人気や行動への賞賛を超えて、精神病患者を社会の代弁者として納得させてしまった。そこにスーパーヒーローものという物語の枠を借りてきた理由があるのではないか。“正義の”ヒーローだって、大衆の支持を得ることで敵の殺害と街の破壊が許容されているだけである。

本作の日本版ポスターでは「本当の悪は笑顔の中にある」というキャッチコピーが使用されている。『ヴェノム』では「最悪」というキャッチコピーがつけられていたが、日本の配給会社が「悪」という言葉を使うときはミスリードしなくてはならない決まりでもあるのだろうか。あまりに嘘ばかりである。これらの映画に“悪”という属性を押し付けるのは、アーサーの言う「主観で善悪の基準を決めつける」行為そのものではないか。「そうだよ、だから好きにやってるんだ」と悪びれることなく言えるほどの自信はないだろうに。

本作では善悪の概念が極めて曖昧であることが示される。悪役のジョーカーは決して悪役ではなく、逆に善玉であるはずのバットマンの父トーマス・ウェインこそが傲慢な悪役として描かれる(彼の言う「我々の作った社会」という言葉は正しくもあり間違ってもいる。社会を作り上げたのは彼らのようなエリートだけではないし、悲惨な状況を作り上げた責任は彼らにこそある)。善や悪という概念は強者や多数派がある種の役割を押し付けているのであり、治安や経済格差が最悪のゴッサムのように善が善として機能しなくなったならば、それまでの悪が善に取って代わる。それがヒーローとしてのジョーカーの正体である。彼は善行や悪行を進んでしようとしたわけではない。彼を取り巻く状況が悪や善を決めるのである。押し付けられた善悪の概念から解き放たれれば、どん底の精神病患者が凶行に走る悲劇は、敵を倒す喜劇に変わる。そこには善も悪もない。

普通の人が闇落ちする設定ではないのは大きか効果があったように思う。悲惨な生い立ちの精神病患者という設定の「悲惨」や「病気」という尺度は、「普通」の人が押し付けてるだけということが強調される。見方の問題だけがあって、価値観はでっち上げである。「狂っている」と見做されることも同様である。

ジョーカーが喝采を浴びて笑顔を取り戻すシーンは本当に美しいので、その後のシーンは蛇足ではないかと思ったが、白い床に血の足跡がつくシーンも美しかったのでなんとも言いづらい。他にアーサーの妄想と現実の区別を完全につけてしまうシーンも、全て説明せずとも女の様子だけで分かるようになっているので親切過ぎる蛇足に感じた(これは『キング・オブ・コメディ』を知っているが故か)。妄想を妄想として明示せず、残りのシーンも妄想ではないかと疑わせる余地を残してもよかったように思う(逆にこれら二つの蛇足ありきでの“全部嘘か本当か分からない”というコンセプトとも受け取れる。なければもっとボカした形で成立していると思う)。バットマン誕生のお決まりのアレも、ジョーカーという存在をヒーロー映画から切り離すという意味では蛇足だったと思うが、ヒーロー映画の枠で考えるならばジョーカーが生まれればバットマンも生まれる必要があるのか。

ホアキン・フェニックスは見事に痩せこけいた。丸々と太ったデ・ニーロと並べば、その細さが一目瞭然である。白人男性は骨格レベルで屈強に見えるので、どんなに痩せても骨ばった背中以外の上半身は痩せている日本人よりもたくましかったりするのだが、逆に下半身の細さは、その対比からも異常に見える。尋常ではない痩せ方はビジュアル的なインパクトも大きいが、設定上は薬の濫用の効果もあるのだろうか。

ジョーカーが踊る印象的な階段は、セットではなく実際に存在するそうである。あんな急な階段で踊ったら、バランスを崩して転げ落ちそうで怖い。

 

*追記

自分の感想を書き終えたので人の感想を読んでいると「救いがない」という言葉をちょくちょく見かける気がする。人の感想に対してケチをつけるつもりは毛頭ないのだが、それまでの善と悪が逆転したのなら悪の側にいたはずのアーサーは大いに救われたハッピーエンドなのでは?(これは『タクシードライバー』のハッピーエンドとも対比になっていて、両者ともに“自分にとっての敵”を殺しただけの自己満足が、従来の意味での善行として受け入れられるか新たな意味での善行として受け入れられるかという違いがある)これは三十郎氏がズレているのだろうか。自分の解釈が正しいという自信はないし、感想としては真逆のものになるだけに少々気になる。

 

*追記2

あの結末は、ジョーカーの神秘性を保つ意味では良かったと思うが、アーサーの物語としては蛇足とも思える。暴動が成功したまま終わらせると暴力礼賛と受け取られかねないので困るというメタな理由で、妄想という余地を残した製作者の日和見なのではないか。喝采を浴びたまま終わっていれば『キング・オブ・コメディ』と同じくアーサーの中では現実という曖昧な受け取り方ができる。そこに「現実なのか妄想なのかどちらだろう」という疑問符をつけたことで、両者の共存を拒む結果となったように思う。

 

*追記3

「救いがない」の意味が分かってきた気がする。三十郎氏は“アーサーの解放”と解したが、“アーサーの闇落ち”だと解せば、救いがないのか。

ジョーカー(字幕版)

ジョーカー(字幕版)

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