オーガナザイズド

三十郎氏は映画とカメラと旅について語りたい。なお、実態はほぼ映画である。

『キング・オブ・コメディ』

The King of Comedy, 108min

監督:マーティン・スコセッシ 出演:ロバート・デ・ニーロジェリー・ルイス

★★★★★

概要

どうしてもテレビに出たい自称コメディアンがなんとかしてテレビに出る話。

短評

コメディアンと狂気というモチーフの映画にロバート・デ・ニーロも出演しているとあれば、何らかの繋がりがあるだろうと思って『ジョーカー』の公開前に復習である。『ダークナイト』は台詞を覚えるほど観たので、あとはティム・バートン版の『バットマン』を復習しておきたいところだが、残念ながらそちらはプライム会員特典から外れている。『アド・アストラ』の上映前に『ジョーカー』と『ジョン・ウィック:パラベラム』両方の予告編を見せられて、三十郎氏の期待はいい感じに盛り上がっている。

感想

良いものとして語られがちなポジティブ・シンキングも自己肯定感もここまで来れば完全に病気である。『タクシードライバー』のトラヴィスは狂気が臨界点を超えて溢れ出したという感じだったの対し、本作のルパート・パプキン(ロバート・デ・ニーロ)は内に秘めきれない狂気が一定のレベルを保ったまま滲み出している。人気司会者のジェリー・ラングフォード(ジェリー・ルイス)とお揃いのスーツを着るような追っかけのくせに「自分はサインをねだる他のミーハーどもとは違う」と強がるが、実態は無駄に行動力のある34才のニートである。悪意なき笑顔でヤバい一般人を表現しているデ・ニーロがヤバい。

思春期の三十郎氏は帰還兵でもなければ都会の孤独も知らないくせに、居場所のない疎外感に対して勝手に自分を重ねていた。しかし、今考えてみると自身を重ねるべきはこの痛い男ではないか。昔から三十郎氏は妄想をする。まだ現実と妄想の区別はついているつもりだが、思春期における「憧れの女の子が自分に話し掛けてきてくれないだろうか。もしそうなったら何を話そう」という陰気で微笑ましくない妄想の本質は、パプキンがジェリーから番組の代役を頼まれる妄想と全く同じである。彼女の視界に入らぬ三十郎氏に彼女が話し掛けてくるはずもない。人生の成功者とはなりえないことが確定的となった三十代の男が成功に憧れることもまた本質は同じである。パプキンの狂気は三十郎氏にとって非常に身近なものである。『アド・アストラ』に自覚させられた“遠くへの漠然とした憧れ”もまた根を同じくするものだろう。

セックスも暴力も宗教も出てこないスコセッシらしくないコメディである。観ている間は文句なしの傑作とまでは思わなかったし強烈なインパクトもないのに、観終わった後にパプキンという男について考えれば考えるほどジワジワとこの映画の怖さが沁みてくる。四つ星評価でこの感想を書き始めたが、書きながら考えている内に五つ星にすべきではないかという気がしてきた。もしかしなくても凄い映画である。

パプキンやマーシャ(サンドラ・バーンハード。顔は怖いが脚が長くてスタイルが良い)、そしてトラヴィスに共通しているのは、相手の話を聞かず一方的によく喋ることだろうか。特にパプキンは、社交辞令を真に受け、相手の話を自分に都合よく曲解して一人で盛り上がる。会話が成立しない。下の面白ツイートの気持ちが少し分かるところもある三十郎氏にとって、これは身につまされる。妄想と現実を混同すると問答無用で病気だが、期待と現実を混同するのも似たようなものだろう。

バンコクにあるターミナル21六階のトイレのような観衆を前に一人漫談の練習(というよりも妄想に近い)をするパプキンに響く笑い声が不気味である。嘲笑にも聞こえる。自宅の部屋に再現された番組のセットも不気味である。妄想と現実を物理的に近付けようとする作業を経て、心理的に置き換えることに成功してしまったのだろう。自宅にセットを設営する時点で十分に狂気に駆られている気もするが、その狂気は決して生まれ持ったものではなく、段階を踏んでいることが分かる。果たして自分は今どのステージにいるのか。

パプキンが番組で披露する漫談は(事件なしに話題をさらうほどではないが)割と面白い。笑えるジョークもあるし間のとり方も悪くない。(母親に養われている現状を考えると怪しいところではあるが)何より本人が(妄想内で)言及している“辛い現実を笑いに昇華する”という作業に成功している(『笑いながら泣きやがれ』で同じことが描かれている)。

もしかすると彼には才能があったのかもしれないが、ジェリーの秘書キャシー・ロングに何度指摘されても従わなかったように、彼は実際に舞台に立つことを拒否し続けた。彼の笑い自体は現実の昇華であっても、彼にとっての笑いは現実からの逃避にしかなっていない。他人の評価という彼には許容できないリスクなしの成功はありえない。必要な過程を全てすっ飛ばして成功した姿だけを夢見る彼の妄想は、これまた過程を全てすっ飛ばして事に至る桃色映像的稚拙な脚本である。森見登美彦氏のように作品として昇華されない限り、誰の妄想もパプキンと似たようなものではないかと思うが、それが現実を侵食する分水嶺はどこなのだろう。

考えるほどに自分とパプキンに共通点があるような気がしてきて、自分がとても危うい存在に思えてくる。彼の痛さは笑えるが、笑っている場合ではない。

ラストがパプキンの妄想か現実かについては大いに悩んだものだが、三十郎氏の中ではパプキンにとっての現実ということで結論付けた。妄想も一線を越えると、それが本人にとっては現実となる。パプキンには、自分の出演が話題となり自身がスターとなる世界しか見えていないのだろう。仮にこれが他者にとっての現実と異なるとしても、パプキン自身にとっては紛れもない唯一の現実である。世界の見え方は一つではない。昨今のネット上の炎上芸を鑑みれば、この結末もありえなくはないという現実も怖い。

 

*追記

パプキンのジェリーへの期待は自己への利益誘導的なものであったが、一般的によく見られる「有名人は人格者であるべし」という期待も、自分の思い込みを他者に押し付けているという点では似たようなものではないのか。それが(ある意味当然に)裏切られたと感じたときの反応は、ジェリーを路上で罵った老婆のそれである。対有名人という枠に限定すれば、この世界にはパプキンが満ち溢れていそうだぞ。

 

*追記2

『ジョーカー』を観て本作の凄さを再認識させられてので、コソっと評価を五つ星に引き上げることにした。「自分がそうなるかもしれないのが怖い」と真に怖れるべきは、格好いいジョーカー様ではなく痛くてキモいパプキンである。喝采を浴びるジョーカーに憧れるのは、ジェリーに番組出演を依頼されることを夢見るパプキンの姿と全く同じである。我々はジョーカーにはなりたくてもなれない。同じように殺人事件を起こしても、その事件が波及して大衆を動かす環境が揃っていなくてはただの殺人犯止まりである。そして現実の情勢がそこまで煮詰まっているならば、『ジョーカー』は陳腐化して面白くは感じないはずである。本作は、その追随者に対する観客の反応まで見透かしていたようで、改めて凄い。そして怖い。トラヴィスに自身を重ねていた三十郎氏はパプキンだったのだ。ビックル三十郎からパプキン三十郎に改名しようか。