オーガナザイズド

三十郎氏は映画とカメラと旅について語りたい。なお、実態はほぼ映画である。

『厭世マニュアル』阿川せんり

概要

マスクを手放せない女の話。

感想

森見登美彦氏が人生初の選考委員を務めたという第六回野性時代フロンティア文学賞の大賞受賞作品。巻末には選評も掲載されている。

登美彦氏が「『文章を読ませる力』が他の候補作とは段違い」と評している通り、とてもユニークで面白い文章である。このユーモアのおかげで割とこじらせちゃってる主人公・口裂けに共感できるし、話が暗くならず楽しく読めた。三十郎氏も真面目な感想を面白可笑しい文章に乗せることに憧れているのだが、両立どころか片方の実現ですら遠い。

三十郎氏は口裂けの周囲の人間の“知った風な口”に一貫してイライラさせられたので、結末には胸のすく思いがした。一方で終盤の展開やキャラクター設定には強引さを感じる。もっとも三十郎氏もこのブログでアンサーセンパイなみに的はずれな“知った口”を垂れ流してばかりいる。人を対象とせず、公開された作品を対象としているからいいやと開き直るしかない。押し付けてないから、空に向かって独りごちてるだけだから、と自分に言い訳をしている。

吹っ切れた口裂けの「我慢するのが割に合わないんです」という言葉がとても刺さった。この世には割に合わない我慢が多い。「皆我慢しているから」「我慢するのが大人だから」と我慢を押し付け合い、手を取り合い力を合わせて自分たちの首を締めている。我慢の連鎖から脱出した人には嫉妬を覚えて「幼稚なだけ」「空気が読めない」「協調性がない」と非難する。しかし、この我慢がなければ容易に崩壊する社会や関係が築き上げられてしまっているのだから考えものである。さらに、脱出した(つもりの)人も他人と違う自分に優越感を覚えて知った風な口を利きはじめたりするので、人間というやつは厄介である。

“他者との均質性を保つことだけが人生ではない”というの多様性の時代である現代的なテーマに思えるが、昔(と言うよりも高度経済成長期の日本)人たちだって周囲のつまらない人間みたいになりたくないと思ったことだろう。それがどうして均質性の押し付けが脈々と受け継がれているのか。他者と自分を比較せずにはいられないのか。価値観を押し付けずにはいられないのか。人とは違うことをしようとしている人ですら自分と違う人を認められないのか。「俺の苦労をお前もしろ」精神の根源は何なのか。

人が自分のことしか考えていないというのは、そこまで悪いことではない。と言うよりも無理もない話である。自分のことですら分かったつもりで分かっていないのに、他人のことなんて分かるはずもない。「だから、その自分を相手に押し付けるのをやめろ」と口裂けは叫んでいるわけである。自分の押し付け合いは、“自分”を押し付けているようであって、実態は正解っぽいことを押し付けているに過ぎない。自分のこともよく分からぬ人間が、押し付けられた“自分”を他の誰かに押し付ける。泥団子の投げ合いである。こうして個人は泥に埋もれて均されるのだ。

よくあることだが、なんだかこんなことを書きたかったわけではないのにという気がしている。それでも面倒だからと書き直さないのが三十郎氏の悪いところであり、ひいてはこのブログの欠点である。

三十郎氏が学生時代にレンタルビデオ店でバイトをしていたので、その頃のことを懐かしく思いながら読んだ。第一次映画漬け時代である。確かに延滞者に電話を掛けるのはとても嫌だった。三十郎氏がそのバイトで学んだことは、熟女ものの桃色資料を借りる人が非常に多いということと(大学で顔を見たことのある人が借りていくときは少し気まずかった)、ヤクザはヤクザものの映画を借りるということである。

ところでマスク顔の店員が当然に受け入れられるようになったのはいつ頃からだろうか。本書ではマスク顔が不真面目、不誠実の権化のように描かれているが、現在の日本はマスク顔の店員で溢れている。三十郎氏はそれに不満を感じることは全くないし、そもそもマスク顔に不愉快になる感覚がよく分からない。見えない部分は都合よく想像できるというのもまた自分勝手で傲慢なのだろうが、実務上の不都合がなければ問題ない。マスクをしていなくたって張り付いたような笑顔は不気味で不誠実に映る。ハゲを隠すのは許さない。

単行本の表紙に描かれている口裂けがどう見ても可愛いのは解せない。

厭世マニュアル

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