オーガナザイズド

三十郎氏は映画とカメラと旅について語りたい。なお、実態はほぼ映画である。

『ダウト~あるカトリック学校で~』

Doubt, 103min

監督:ジョン・パトリック・シャンリー 出演:フィリップ・シーモア・ホフマンメリル・ストリープエイミー・アダムス

★★★★

概要

神父が少年に手を出したと疑われる話。

あらすじ

いかにも厳格で恐ろしいシスター・アロイシス(メリル・ストリープ)は、進歩的で人気者のフリン神父(フィリップ・シーモア・ホフマン)の存在が気に食わない。フリン神父がシスター・ジェイムズ(エイミー・アダムス)のクラスの男子生徒に手を出したかもしれないという噂を耳にしたアロイシスは神父の失脚を図る。

感想

いかようにも受け取れる話である。刑法の精神に照らせば、神父は無罪である。アロイシスの主張には証拠がないし、議論で旗色が悪くなれば論点のすり替えや開き直りを見せる。嫌われ者が人気者に嫉妬して、無責任に謀略を巡らせたようにも見える。この場合、神父は被害者である。

一方で、アロイシスにかまをかけられ譲歩した神父も限りなく疑わしい。我々は、神父が少年少女に手を出す事件が実際にあったことも知っている。証拠はないが、疑うに足る人物ではある。従って、証拠がないからといって放置することも正義とは呼べない。

ここでもう一つ、正義についての疑問が浮かぶ。神父が少年と関係を持っていたとしたら、それ自体は罪である。しかし、実際問題として少年には保護者が必要だった。神父の追放により少年の未来は暗くなる。一体誰のための正義だったのか。

全ては一つの疑念から始まる。疑いが疑いを呼び、それは決して拭い去ることはできない。実に厄介である。しかし、そもそも人を疑わなければよいというのも間違いである。アロイシスがジェイムズに指摘するように、疑わずに信じることの方が楽なだけなのである(一方で、アロイシスが証拠もないのに頑なに疑い続けるのは、自分の間違いを認めるよりも追求を続ける方が楽だからというようにも見える)。

映画の最後に、アロイシスがそれまでの鉄の表情を崩して漏らす「疑い」の言葉は実に重層的に響く。一つの疑いが広がりを見せ、それは自分自身へ、教会の体制へ、そして信仰そのものに向けられる。