オーガナザイズド

三十郎氏は映画とカメラと旅について語りたい。

『恋文の技術』森見登美彦

あらすじ

能登半島の研究所へと一人送り出された学生が文通武者修行に励む話。

感想

森見登美彦氏が遂に京都を離れ、金沢を舞台とした画期的作品。京都から能登半島へと一人送り込まれた大学院生・守田一郎が知人たちに送りつける手紙だけで構成されている。呆れるほどに見事な文章力と構成力。双方向でやり取りされる手紙の片道だけしか読めない読者に相手からの返信を想像させて楽しませたかと思えば、別の相手への手紙で情報を追加して、もうひと笑いさせる。整合性を保つのはさぞ大変だっただろう。詳しく分析すれば矛盾もあるのかもしれないが、守田一郎による圧倒的な勢いの文章はそれを意識させない。

おっぱいやそれに準ずる言葉(乳、ちょっと男よりもふっくらとしているというだけの身体的特徴の一つ、ふわふわした曖昧なもの、ちょっとしたふくらみに過ぎないもの、例のもの、ふわふわとしたもの、オ◯パ◯、〇ッ〇イ)の登場は、未曾有の215回。余りにも多すぎて数え間違いがあるかもしれない。マシマロン小松崎が守田へと送った手紙に書かれた百と八回のおよそ2倍である。準ずる言葉を除いた、純粋なおっぱいだけでも200回を超える。これでは乳文の技術である。

インターネットの大海を漂う一粒のマイクロプラスチックの如き存在である三十郎氏がおっぱいおっぱい言うのとはわけが違う。一人の小説家が自身の作家生命を懸けておっぱいおっぱい言っているのである。この覚悟は相当なものだろう。しかしながら、流石におっぱいおっぱい言い過ぎである。ここ数日、三十郎氏が映画を観ては猥褻な感想を垂れ流していた責任は、本書にある。三十郎氏に責任はない。以前からおっぱいおっぱい言っていたなどと指摘してはいけない。「人間というの痛いところをつかれると、感謝するよりまず反発するものだ」。

おっぱいに関する名言のオンパレードである。いくつか紹介しておこう。

君の目前にある、今そこにある乳の存在について徹底的な懐疑の念を持ってみるべきだ。今そこにあるおっぱいは、いったい何か。それを飽かず見つめている己は、いったい何か。それを繰り返し問い続けるうちに、おっぱいは世界の中で君と対峙する一つの純粋な存在として抽象化され、君を理不尽に魅了することをやめるであろう、たぶん。これを「方法的おっぱい懐疑」という。

森見登美彦『恋文の技術』より 

 なお、方法的おっぱい懐疑によっておっぱい絶対主義に打ち克つことはできない。

 「おっぱいは世界に光をもたらす。光あれ」

森見登美彦『恋文の技術』より 

 果たしておっぱいは世界に光をもたらすのか。世の男たちを無闇矢鱈に暗闇へと導いていないか。

「おっぱいそれぞれ、人生それぞれ」 

森見登美彦『恋文の技術』より 

元ネタは小泉純一郎の「人生いろいろ、会社もいろいろ、社員もいろいろ」だろう。

おっぱい関連以外にも有用なアドバイスがある。「インドへ逃げるのはよせ」。かつてインドへ逃亡し、インドからもむざむざ遁走した三十郎氏が認めるのだから間違いない。インドへ逃げるのはよせ。くれぐれも。

森見グルメ

単行本p.40に登場。大塚緋沙子にここで麦酒を飲み過ぎないようにと諌めている。

単行本p.52、101に登場。

単行本p.102、137等に登場。登美彦氏がすき焼きを食べたことを守田に自慢し、守田が京都に戻った際は一同ですき焼きを食べ、守田・小松崎を置き去りにしている。

天狗ハムはなかなか高級である。守田はリッチだ。魚肉ハンバーグを食え。

温泉玉子は「総湯」ではなく、「湯元の広場」「弁天崎源泉公園」の二ヶ所で食べられるようだ。

([も]3-1)恋文の技術 (ポプラ文庫)

([も]3-1)恋文の技術 (ポプラ文庫)